ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.83 2つの「医療難民」を考える(上)
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 平成19(2007)年がスタートして早や10日、食べすぎ・飲み過ぎ後遺症の「お正月太り」もそろそろ回復期に入っておられることでしょう。私も元日、二日と孫たちと連続の初詣に出かけて、今年の漢字ベスト・フォー「楽、健、和、幸」をお祈りし、同時に足腰の老化防止に努めてきました。

 さて、新年早々明るい話題をと思いながらも、今回からは医療に関連する2つの難民、「リハビリ難民」と「がん難民」を取り上げてみます。

 昨2006年は、医療保険、介護保険の制度改正が相次いだ年でした。いずれも、人口の高齢化にともない各制度の支出が増加の一途をたどっているので、見直しの中心は被保険者の負担を増やし、給付は抑えるというものでした。その1つが、4月から実施された「診療報酬改定」によってリハビリテーションの治療日数を原則として180日に制限する、つまりそれ以後のリハビリは保険の適用打ち切りという改定でした。

 これに対して直ちに反対を呼びかけられたのは、以前にもご紹介した多田富雄・東大名誉教授(第63話)でした。4月8日の朝日新聞「オピニオン」欄に、「リハビリ中止は死の宣告」という投書を寄せて、非人間的な暴挙であると告発されました。この投書には大きな反響があって、リハビリ打ち切り反対に共感する全国的な署名運動に発展しました。呼びかけから40日余の短期間に44万4022人もの署名が集まり、6月30日、「リハビリ診療報酬改定を考える会」(事務局・大阪府豊中市)から厚生労働省の担当官に手渡されたのでした。

 締め切り後も署名は増え続け、最終的には48万人を超えました。多田先生は「運動がこれほどまでの高まりを見せたのは、福祉が切り捨てられる格差社会において、医療難民が出る不安が増大することを、庶民が敏感に感じ取ったからに違いない。市民運動の力をこれほどまで感じたことはない。庶民はだまっていないのだ」と述懐しておられます(朝日新聞 9月2日付「国は44万人の叫びを聴け(オピニオン)」)。

 この制度改定をもう少し詳しく説明すると次のとおりです。

 改定前には日数は関係なかったのですが、リハビリの必要な疾患を4系統に分類して、@ 脳血管疾患は発症から180日、A 運動器疾患は150日、B 呼吸器疾患は90日、C 心大血管疾患は150日、とリハビリが受けられる上限日数を制限しました。失語症、高次機能障害、重度の頚髄損傷、頭部外傷、一部の難病などについては日数制限を除外(いわゆる「除外疾患」)しています。

 それ以外は、日数を超えると医療保険が適用されないので、介護保険の対象となり、老人保健施設への「通所リハビリ」、あるいは医療機関や訪問看護ステーションから理学療法士らが自宅に来る「訪問リハビリ」へ移行しなければなりません。ところが移行先の介護施設は、理学療法士の数が非常に少なく、個々の患者体調や回復状況に応じたリハビリは困難だし、まるで「お遊戯みたいな」機能訓練だけなのです。また訪問リハビリの方は何時も予約がいっぱいで断られる有様です。要するに、「受け皿」は不足していてお粗末きわまりないのです。

 厚生労働省は、制度がスタートしてから約1ヵ月後になって、「医師が改善を期待できると判断した場合」という条件付で、脳血管疾患でもリハビリは180日を超えて継続できると改めています。明らかに改定反対の声に押されたために取らざるを得なかった措置です。しかしこの条件には診断基準すらなく、解釈があいまいで専門家の間でも意見が分かれて、医療の現場を混乱させてしまったのです。反対署名の呼びかけ人の一人、兵庫医科大学の道免和久教授(リハビリ医学)は、「これ以上回復しないと言い切れるケースなどないし、仮に目立った回復が望めないとしても、リハビリを続けることで身体機能をなんとか維持している患者さんも多い」と反論しています(週刊朝日 06年7月21日号)。

 さらに、多田名誉教授、道免教授ともに、今回のように「治る見込みのない者は切れ」という直接的な切捨ては、医療保険制度が始まって以来初めてのことだと憤慨しておられます。

 これにより、改定前に発症していた患者は4月1日を起算日にするという経過措置で、180日経過する9月末には、長年リハビリを継続してきた人も打ち切りの憂き目を見ることになりました。多くの患者が9月末に「期限切れ」を迎えて、「リハビリ難民」が全国に溢れ出たのです。全国保険団体連合会が脳卒中などのリハビリを行う医療機関に実施した調査では、リハビリを中断された患者は、9月以降全国で約1万7000人に上ったのです。すべてが日数制限のためかどうか不明にしろ、同連合会は「回答率は3割強なので、全国では4万人を超える」と推計しています(読売新聞 06年12月3日付)。

 一方、厚生労働省は、「患者切り捨て批判は誤解」だと次のように反論しています(原徳寿・保険局医療課長「私の視点」、朝日新聞 06年11月7日付)。

 脳卒中などで倒れても発病直後に集中的なリハビリを行えば、より高い機能回復の効果があって、多くの患者がこうした治療が受けられるように発病直後の「急性期」には、従来の1.5倍の時間をかけて集中的なリハビリを可能にしたと言います。この点は現場の医師からも評価されていて、リハビリはむしろ充実したという立場を崩していません。

 また「医師が改善が期待できる」と判断した場合には、制限の対象外となる病気を幅広く認める配慮もしていると言い、「リハビリ受け皿」施設についても、医療保険のリハビリが5千ヶ所で実施されているのに対して、介護保険の通所リハビリは6千ヶ所、訪問リハビリは2千ヶ所で行われていると数字だけの受け皿優位を説いています。

 さらに、リハビリの効果は時間の経過とともに減少するのに、医療現場では効果の見込めない「維持期」のリハビリが漫然と続けられているケースも少なくないので、リハビリという手段が自己目的化してしまう「訓練人生」が望ましいかどうかよく考える必要があるとも言っています。しかしこの反論もやや歯切れが悪く、医療現場で不測の事態が起きる可能性も否定できないので、中央社会保険医療協議会(中医協)で、医療保険のリハビリが終了した患者にアンケート調査を実施して、その調査結果はこの2月を目処にまとまることになっていますが、結果次第では次の診療報酬改定で「改善する予定」とも言っています。患者の視点に立った見直しが切に望まれます。

 多田名誉教授はその後も論鋒鋭く厚生労働省を批判し、「文芸春秋」06年7月号に、「リハビリ患者見殺しは酷い ― 弱者は死ねと言わんばかりだ。医療改革の非情 ― 」を書き、さらに「世界」06年12月号には、「リハビリ制限は、平和な社会の否定である」(このテーマを実に詳細に論じています)と、制度改定に対し反対の姿勢をますます強めておられます。

 昨年夏に亡くなられた社会科学者・鶴見和子さんの直接死因はがんであっても、リハビリ制限が死期を早めたに違いないと断じて、「こんな人権を無視した制度が堂々とまかり通る社会は、知らず知らずに戦争に突き進む社会になる」と怒りを顕にしておられます。そして論文を、「この制度改定に断固として反対しなければならない。それが鶴見さんの遺志でもある」と結んでおられます。

私も精神科医であり作家の帚木蓬生の小説「総統の防具」(日本経済新聞 1996年刊)で読んだ、ナチス政権下で行われた回復見込みにない精神病患者を抹殺するという挿話がちらっと思い浮かび、背筋に冷たいものが走るのでした。

                         (2007年1月10日)


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