ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.8 今年は「北里柴三郎生誕150周年」です
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 今年は「近代医学の父」といわれる北里柴三郎の生誕150周年にあたります。折しも国立科学博物館では「感染症制圧への挑戦」とサブタイトルをつけた記念展が開催されています(12月14日まで)。

 昨年11月に中国・広東省で発生して世界中に広がったSARS(サーズ、重症急性呼吸器症候群)の中継基地が香港だったことは記憶に新しいと思いますが、柴三郎にとっても世界に先駆けてペスト菌を発見した因縁深い土地でもあります(1894年)。

 畏友・山崎光夫先生(モノを書いてお値段のつく本が出版できる方をそうお呼びすることにしています)が、今年もまた新著を恵贈してくださったのは、ちょうど海外旅行に出掛ける直前でした。その本のタイトルは「ドンネルの男 北里柴三郎」(上下)です。

 無事帰国して、時差ぼけが取れないまま一気に読み終えて、「記念展」にも足を運びました。

 著者の山崎先生とは、十数年前にたまたま出席した鴎外研究会の席上、顔見知りとなって以来のお付き合いです。彼は1947年福井市生れ(福井大使でもあります)、早稲田大学出身、雑誌記者を経て医学・薬学の世界を執筆の分野と決めて作品の発表をつづけ、すでに5年前に新田次郎文学賞も受賞されて活躍中の「医療小説」作家です。

 新著(11月6日刊)の広告用「帯紙」にはこう書かれています。「北里は象牙の塔に安住した単なる細菌学者ではない、というのがわたしの抱いている北里像である。我が国の公衆衛生をリードした指導者であり、多くの研究者を育てた教育者でもある。日本に近代簿記を紹介したのは福沢諭吉だが、北里はその福沢の弟子でもあり、遺志をついで慶応義塾大学・医学部を創設した。また、日本医師会の初代会長も務め、オーガナイザーとしての才も発揮している。幅広い視野を持った桁外れの人物である。(『あとがき』より)」

 明治以来の医学校出身者で、医者を通した大人物の中でもナンバーワンと称してよいのが北里柴三郎です。波乱万丈のその生涯はまさにドラマにつづくドラマの連続なのです。

 柴三郎がドイツ留学から帰国して以来、公私にわたって支援してきたのは福沢諭吉でした。今度の作品が成功している一つの要因として、著者が田端重晟(しげあき)の未公開日記を掘り起こして利用していることを上げたいと思います。福沢が帰国後失業同然だった柴三郎に芝御成門の土地を提供し、実業家・森村市左衛門から資金を引き出す世話をして設立した私立伝染病研究所で日本での研究がスタートします。そのときから、福沢は経理に明るい田端を北海道から呼び戻して、終生柴三郎の側近として働かせます。

 官僚の身勝手さを十分承知していた福沢は、いつどんなことが起ころうと慌てないだけの財政的基盤を作っておくように指導し、田端も見事にその役割を全うするのです。研究には、金、運、忍耐、熟練の4G(ドイツ語)が必要といったのは、柴三郎と同門のエールリッヒだそうですが、まずは彼もまた強運の持ち主だったと言えましょう。

 東京大学卒業後、奉職した内務省からドイツ留学したとき(1886年)の同期生がなんと中浜東一郎(のちの明治生命・医長、初代保険医学会長)で、それぞれ、コッホ(ベルリン大学)とペッテンコーヘル(ミュンヘン大学)の教室で研究を始めます。途中、2年が経過したときに訪独した上司・石黒忠悳から両者を交代させる命令が出ます。研究に油が乗っている柴三郎が上司の命に従うはずがありません。一緒にいた森鴎外の気配り上手な取り持ちで研究継続ができたのですが、もしこの交代劇が実現していたら、彼のノーベル賞候補になった破傷風菌の純粋培養と抗毒素の発見は幻の研究に終わっていたでしょう。

 1914年に起きた伝染病研究所の内務省(すでに国立になっていた)から文部省(東大・医学部)への移管問題も、柴三郎と当時の青山胤通・医学部長との20年前の香港ペスト調査時に生じた確執、さらにその前の脚気の原因菌を巡る東大・緒方正規教授との論争(柴三郎が同郷の先輩への情を切り捨てて真理を追求した)などが、尾を引いた大事件でした。

 日露戦争に「勝利」したものの、財政状況の悪化を行政改革で乗り切る政府の政策に巻き込まれたというのが真相なのですが、政府に対する不満が高まるなか、世論の同情は東大より伝研の方へ大きく傾きます。

 ドンネル(雷)は落とすが、人情家で面倒見のよい柴三郎の人格的魅力に引かれ、移管(赤穂城の引渡しに擬えている)当日、職員全員が辞任して即日、私立北里研究所設立に参加しますが、田端の30万円に及ぶ蓄財もまたモノを言ったに相違ありません。

 志賀潔(赤痢菌)、秦佐八郎(サルバルサン)、北島多一(ハブ抗血清)など多くの人材を輩出した研究所は、戦前パスツール、コッホ両研究所と並ぶ世界の3大研究所として有名なります。

 破傷風菌の純粋培養に成功した彼の実験装置や緻密で几帳面な実験メモも、今回の記念展で初めて目の当たりにしました。コッホ教室の同僚・ヘルターの下宿で食べたアイアーシュティッヒという料理を作る際に、差し入れた木串の先端を触ってその出来具合を確かめていたのを見て、「嫌気性細菌」の実験のヒントを得たのです。ニュートンのりんごに似た話と言えないでしょうか。

 ついでに「コッホの3原則」の復習もしておきますと、特定の細菌がある病気の原因であることを証明する理論としてコッホは、「同じ病人のすべてに存在しなければならない」、「純粋に培養しなければならない」、「動物に同じ病気を起こさねばならない」の3原則を打ち立てたのです。

 柴三郎の恩人に報いる態度も見上げたものです。終始一貫、肥後もっこすの気性そのものでした。福沢の念願だった医学校(一度は慶応義塾に創設したのですが途中で廃校になります)の再興(大学医学部)を成し遂げたこと、学問上の恩師コッホを日本へ招き大歓迎したことなどがそれです。

 いずれにせよ、今後二度と出るかどうかという明治・大正・昭和三代にわたる偉人で医人の北里柴三郎の人物とドラマを再訪したい方には、山崎光夫の新著(東洋経済新報社)と、国立科学博物館の記念展(上野公園 入場料420円 ただし65歳以上のシニアは無料)はぜひお勧めです。

 (国立科学博物館  http://www.kahaku.go.jp/ 

                                              (2003年11月23日)

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