ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.63 免疫学者の「闘病記」―脳梗塞と前立腺がん―
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 最近、いろいろな病気についての「闘病記」が流行っています。体験した者にしか分らない苦痛や悩みがあるからこそ「同病相憐れむ」ことになりますし、主治医の言いなりになる患者は時代遅れだという風潮の影響もありましょう。かく言う私も、時々この類いの本を手にとってみます。そのなかの一つに多田富雄先生の闘病記があります。心に染み入るように綴られた達意の文章には本当に圧倒され感動させられました。

 それもそのはず、
多田先生は1934年のお生れですから私とほぼ同年輩、千葉大学教授、東京大学教授、東京理科大学生命科学研究所長を歴任されました。1971年に免疫応答を調整する「サプレッサー(抑制)T細胞」の発見者です。この一連の研究業績が高く評価されて、野口英世記念医学賞、エミール・フォン・ベーリング賞、朝日賞など多数の賞を受けておられます。

1984年には文化功労賞受賞、95年から3年間、国際免疫学会連合会長を務められ、一時ノーベル賞の候補にも上った方ですから、掛け値なしに世界的な斯界の権威、碩学と申し上げてよいでしょう。

 しかし多田先生には別のお顔もあります。新作能の作家でもあり、大倉流の小鼓の名手でもあります。ご専門の著書、論文はもちろんですが、一般向けの啓蒙書(代表作の「免疫の意味論」(青土社刊 第20回大仏次郎賞)は免疫学上の「自己と非自己」の概念を普及させるのに一役買ったのでご存知の方も多いでしょう)や随筆家としても有名(「独酌余滴」(朝日新聞社刊 第48回日本エッセイストクラブ賞)です。

 その多田先生が脳梗塞で倒れられたのは2001年5月、67歳の誕生日を過ぎて間もなくでした。もともと彼は、定期的に行ってきた検診でも何ひとつ引っ掛かるところはなかったし、健康には誰にも負けない自信を持っておられました。ですから発病の前、数年間は毎月のように海外出張をこなすことができたのです。脳梗塞発作の前20日間は、オランダの会議からいったん帰国後すぐニューヨークへ飛んでシンポジウムに出席、とんぼ返りで東京へ戻った翌々日、山形へ行き、そのあと列車を乗り継いで金沢へ、まさに殺人的な超過密スケジュールでした。ご本人いわく、あとで考えると過労だったことは否めない事実で、原因は私の不摂生に相違なしと告白しておられます。リスクファクターが一つもなくても脳梗塞は発症することと、何事もほどほどがよろしいという小生流の「中庸は徳なり」を実証するような症例です。

 発作の前触れは、金沢の友人と乾杯したワイングラスが馬鹿に重く感じられたことでした。翌日には、意識を失わなかったものの急に口がきけなくなり、全身の力が抜けたので、直ちに救急車で金沢医大へ緊急入院、症状も一過性でいったんはすっかりよくなります。その夕刻、2回目の発作に見舞われ、にわかに身体の自由が失われ金縛りの状態になります。このときも一過性で病棟の医師が駆けつけた時には回復していて、ご自身でも事の重大さには気がついていなかったようです。そのうちに睡眠剤のせいか泥のような眠りに引き込まれ「死の国」を彷徨う、いわゆる臨死体験をされます。翌朝目覚めたとき、一夜にして半身不随(右側の運動麻痺)と構語障害(失語症ではない)と嚥下障害(仮性球麻痺)の後遺症を背負って生きている自分を発見されます。

 水はおろか唾さえ飲みこめない、わずか数ccの水に溺れ、おのれの唾液に噎せかえる地獄の苦しみが始まります。何度か自殺しようと思ったそうですが、否応なく死の誘惑から救ったのは、内科の勤務医をなさっていた夫人の献身的な看護だったそうです。

 さすがに知的なお仕事をして来られただけに、頭が駄目になったのではというのが最初の心配でした。幸い九九は大丈夫だったし、覚えているはずの謡曲の文句も全部思い出すことができて、涙ながらにほっとされます。しかし物書きですから右手が使えないことは、ご趣味の小鼓が打てないのと相俟って、どんなにショックだったろうとお察しできます。もちろん右足の麻痺もあって歩行は半歩もできません。手足の麻痺が神経細胞の死によるものであり、最近になって神経細胞の再生が報告されていることもご存知ですが、まだまだ臨床に応用するまでには至っていないので、脳梗塞が治るとは思っておられません。

 そこで金沢医大から始まり、都立駒込病院、都立リハビリテーション病院、東大病院、さらに都立大塚病院と、主として歩行訓練、言葉の発声と嚥下の訓練に涙ぐましいリハビリの毎日がつづきます。その体験を通して、リハビリのノウハウを蓄積して科学にまで高めているのは、医師ではなくてパラメディカルの訓練士たちであることを実感されます。半年ぶりにゆっくりと踏み出すことのできた一歩に感動して、両眼の涙で何も見えなくなったという箇所を読んで、思わずこちらも目頭を熱くしたものでした。

 ご本人の懸命の努力、夫人を初めご家族や友人、弟子の皆さんの励ましにも拘わらず、多田先生の多重障害の回復ははかばかしくありません。結局、移動は車椅子、コミュニケーションはパソコン主体という生活になります。凄いと思うのは彼の旺盛な精神力です。発病後ほぼ半年ぶりに発表された「文芸春秋 2002年1月号」掲載の闘病記、「鈍重な巨人 脳梗塞からの生還」は、左手1本による6千字、原稿用紙15枚からなりますが、猛然と書きたいという衝動に突き動かされて出来上がったのでした。書くことによって自らのどうしようもない障害状態を受容し、その中に生きる意味を見つけられたに違いありません(柳沢桂子)。

 言葉が話せない、介助付きでも100メートルも歩けない、嚥下困難のまま、寝ていて咳ができない、立って排尿もできず(念のためオムツ使用)、起きて歯磨きもできない、常住坐臥苦しみの連続のなか、先生は何処へでも積極的に出かけるのです。

 また核武装をすれば戦争を抑止できると思うのは間違いであり、一人ひとりが平和を願っているかぎり破滅は必ず回避できると信じて、発病後新たに反核の願いを込めた3つの新作能、「一石仙人」、「原爆忌」、「長崎の聖母」を創作して、何とその舞台稽古にも立会われます。(上演の際には広島、長崎へも飛ばれたのでした)

 こんな多田先生に更なる病魔が襲いかかります。脳梗塞発症からちょうど4年後の2005年5月に、今度は観劇中に尿閉を起こして救急車で東大病院へ運ばれ、肛門からの触診で即座に前立腺がんとの診断をつけられます。もはや手術不能なグレードCの進行がんでした。治療のために残された選択肢は、「玉をとることですな」と教授から宣告され、即座に「去勢術」を受ける同意書にサインされます。

 手術は無事に成功して自宅の風呂に入って、はじめて玉が二つともないこと、袋は元通りですが内部が空であることが分り、少年のペニスのように清らかな形に縮こまって水中にゆらゆらし、体が軽く浮き上がってしまいそうになるのを感じられます。無垢の童貞の少年に戻って不老不死の酒を飲んでいるような錯覚を覚えたその夜、自分の身体に透明な蜻蛉のような翅が生え、空をどこまでも飛んでゆく夢、つまり、「羽化登仙」の夢を見られるのでした。このように重大な病気と障害を持つ苦痛の真っ只中にいながら、精神的にはまったく健康な多田先生に心からなる拍手を送らずにはおれません。

 次回からは前立腺がんの話に入ります。

<参考文献>

  多田富雄・柳沢桂子:「露の身ながら 往復書簡いのちの対話(集英社 2004年4月)
 多田富雄:「羽化登仙の記」(「青春と読書」2006年2月号 集英社) 

                                           (2006年3月1日)

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