ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.49 ルーズベルト大統領の死因
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 もうすぐ8月15日がやってきます。第二次世界大戦が終結して60年も経過した今も、その頃もの心ついていたシニア世代にとって、8月15日は一生忘れることにできない思い出の日ではないでしょうか。その日から僅か4ヶ月前に、敵国アメリカの大統領 フランクリン デラノ ローズヴェルト F.D.Roosevelt(1882〜1945)が急逝しています。当時皇国少年だった私にとって、ルーズベルト(ローズヴェルトではしっくりしません)は、チャーチルと並んで鬼畜米英の首魁でしたし、漫画化して描かれた彼の似顔絵は今も脳裏にこびりついています。

 歴史に「if(もしも)」はありません。しかし彼があと十年生きていたら、広島・長崎の原爆投下はなかったとか、戦後の東西冷戦時代にも別の展開があったとか、現代史は書き直されていたであろうと真顔で語られるくらいです。第32代アメリカ大統領の彼は、愛称FDRで親しまれた史上唯一の四選大統領でした。もとより彼の死因など知る由もありませんでした。戦争中だったから当然と思われるでしょうが、実は長い間、アメリカ国民にとっても彼の死因は謎に包まれていたのです。答えは、「悪性高血圧」(腎血管性高血圧の可能性が高いと考えられています)でした。

 今でこそ有効な降圧剤の研究開発が進み、悪性高血圧の患者を数年から10年以上も延命させることが可能になっています。60年前には血圧を下げる適切な薬剤がなく、今日のがんに匹敵する死に至る病でした。もっとも、今日でも1剤だけでは十分な血圧コントロールをすることには無理があり、悪性高血圧は東京都など自治体によっては医療費助成対象の「難病」に指定されているので、決して生易しい病気ではありません。

 世界大戦末期のきわめて重要な時期に、アメリカ大統領の健康管理を担当するしっかりした主治医がいなかったとは考え難いのことです。短絡して言うなら、主治医はいたのですが頼りになる循環器内科の専門医が主導権を握っていなかったのです。

 彼が下半身麻痺の身体障害者で車椅子の大統領だったことを知らない人はいません。海軍次官から民主党の副大統領候補として出馬して落選後、野に下っていた彼は、1921年の夏ポリオ(小児麻痺)に罹患して、両膝から下が麻痺してしまいます。いったんは政治生命を絶たれたかに見えた彼は、必ず治ってみせるという不屈の闘志でリハビリに専念し、奇跡のカムバックを果たします。ニューヨーク州知事を経て、大統領にまで上り詰めるのですから、この40歳からの大病克服だけでも強靭な意志と努力の塊のような人物だったことがわかります。

 4回目の大統領選挙を翌年に控え、大戦指導に没頭していた1943年末頃から彼の体調は見る見る衰えを見せ始めます。シアトルにいた長女のアンが新聞に掲載された父親の容貌が激変しているのに驚き、ワシントンへ駆けつけて母親エリノア夫人に相談をしたのがきっかけとなり、翌44年3月17日に父親を督促してベセスダ海軍病院で特別検診を受けさせたのです。

 このときの検診担当医が、心電図の専門家 ハワード ブリューン H.G.Bruenn(1905?〜1995)でした。出迎えたブリューンに大統領はにこやかに微笑を投げかけ、若い医師は緊張をほぐされたほどだったそうです(大森実 「ルーズベルト 自由世界の大宰相」 講談社 1978年)。この日からブリューンは、大統領の最期を看取るまでの僅か1年間だけ循環器担当の主治医を務めたのです。

 大統領に初当選したとき(1932年)以来の主治医は、耳鼻咽喉科専門のマッキンタイア R.McIntire(1887〜1959)でした。当時から大統領は慢性の副鼻腔炎(蓄膿症)と慢性気管支炎を患っていて、しばしば上気道炎(いわゆる風邪)を起こしていたからです。マッキンタイアは38年から戦後の46年まで海軍・軍医総監の要職についた大物ではありましたが、大統領の健康管理という点に関しては結果的にミスキャストだったと言ってよいでしょう。

 44年の選挙中も、大統領が憔悴して見えるのは慢性気管支炎の悪化のためであり、高血圧や心不全の兆候はなく、その重責のために疲労困憊の状態にあるのだと釈明していたくらいです。もちろん主治医団のトップとしての政治的発言だったことを割り引いても、健康管理に誤りがあったことは明らかです。

 大統領の死後25年も経過してから、ようやくブリューンは、長年の沈黙を破って権威ある医学雑誌(Annals of Internal Medicine,1970)に、「医学史」論文としてルーズベルトの病状を報告し、初めて大統領の死因についての真相を明らかにし、健康管理の根幹にかかわる重要問題を提示したのです。かつての上司、マッキンタイアが存命中はできなかったのでしょう。

 その内容を高血圧治療の専門家・道場(どうば)信孝・元帝京大学・第3内科教授の著書から要約すると、次のとおりです(「高血圧を知る よく生きるための知恵を選択」 NHK出版 2002年)。

 大統領の初診時診察所見は、血圧は186/105mmHgであり、心臓の拡大と心尖部の心雑音(おそらく僧帽弁の逆流による)、肺にはうっ血があり、尿検査でたんぱく(+)、さらに心電図には明らかな左室肥大、胸部エックス線像では、顕著な心拡大と胸部大動脈の動脈硬化性変化が認められました。これまで診療録から得られた医学的情報を参照して、ブリューンのつけた診断は、@高血圧、A高血圧性心疾患、B心不全、そしてC急性気管支炎でした。

 報告を受けたマッキンタイアは、予期しなかった結果に慌てて、その対応策を提出するよう指示を下します。ブリューンの治療プランは、@1〜2週間の看護婦付きの安静、Aジギタリス(強心剤)療法、B食塩の制限、食卓塩に塩化カリを加える、C鎮咳剤としてコデイン、D安静と睡眠にための鎮静薬、E緩やかな減量、などでした。

 残念なことにこの提案は大統領にとってあまりに急すぎること、そして生活上の制約が多すぎるという理由から主治医団からは退けられ、単なる安静と鎮咳シロップだけにとどめられたのです。3月末になっても病状は改善せず、心不全の症状が続くので、ブリューンは心臓病の専門医は自分だけだということを強く主張した結果、ようやくジギタリスの使用が認められて、それ以後の経過は次第に快方に向かったのでした。

 これらの医学情報が完全な部外秘であったことはもちろん、大統領自身も自分の病気について一切質問をしなかったそうです。推測の域を出ませんが、うすうす気づきながら、決定的な診断を避けて通りたいという患者心理に基づく受療行動だったのかも知れません。

 その後の経過は一進一退であり、血圧は依然として186〜260/120〜150mmHgと極めて高く、時には300mmHgを超えることもあったとい言います。当時としては最新の治療法であった減塩療法がいち早く取り入れられたことは注目してよいでしょうが、このように進行した高血圧には著効を期待することはできませんでした。7月と8月には狭心症発作も起きています。

 大統領は10月の選挙戦を最も生き生きしてして闘ったと言われますが、このあたりが彼の体力の限界でした。翌45年2月には、クリミア半島の保養地ヤルタでの米英ソ三国首脳による戦後処理の重要会談に出席しました。この旅行が病気が進行中の彼にとっていかに過酷なものであったか容易に想像できます。ヤルタ会談からの帰国後もワシントンでの激務をこなすのですが、ついに3月末には緊急な休養が必要とされ、ジョージア州のウォーム・スプリングへ静養に出かけます。この休養によって幾分体調が回復したかに見えた1945年4月12日午前、椅子に坐って新聞を読んでいた大統領は、突然後頭部に非常に激しい頭痛を訴え、その1〜2分後には意識を失ってしまいます。発作の15分後に診察したブリューンによって、脳出血と診断され、午後には息を引き取ります。享年63歳でした。

 今日では、眼底検査や腎機能検査は必須の臨床検査ですが、当時これらの検査は行われていませんでした。しかし、大統領の診療記録から血圧測定のデータは1931年から残っていて、35年までは正常範囲でしたが37年からは異常に高くなり、心電図所見も年を追って異常所見が重くなるのが認められています。ブリューンのような循環器疾患の専門医に診察を求めた時期がいかにも遅すぎたのでした。

 健康管理医として高血圧の意義を理解していなかったマッキンタイアを主治医団のトップに据えたことは、大統領個人はもとよりアメリカ国民にとっても、ひいては世界中の人々にとっての不幸な出来事だったと言うほかありません。なぜなら主治医の適切な判断と対応が、余りに遅すぎたがために、アメリカ国民は死を目前にした重症患者を大統領に選んでしまったからです。

                                           (2005年8月3日)

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