ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.47 「コロトコフ音」百周年を顧みる
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 2005年がアインシュタイン(1879〜1955)の「相対性」理論の論文発表から百周年にあたることに因んで、今年を「世界物理年」と位置づけ、物理学の専門家によってさまざまな催しが行われることをご存知の向きもあろうと思います。

 しかし第二次世界大戦終結60周年と並んで、もっと一般人にとって馴染みの深いのは、日露戦争戦勝百周年ではないでしょうか。医学史の上でもこの日露戦争にも参戦したロシアの外科医 ニコライ セルゲーヴィッチ コロトコフ N.S.Korotkov(1874〜1920)が、「コロトコフ音」による血圧の間接測定法を発表してから今年は百周年にあたります。

 200年以上も信じられてきたニュートン(1642〜1727)の「万有引力」力学を修正し、のちの原子爆弾開発の理論的基礎まで作った20世紀最大の天才・アインシュタインとは比ぶべくもありませんし、知名度も低いコロトコフのことは、循環器の専門医くらいしか知らないのではないでしょうか。しかし一般診療の場で、この100年間その原理が生き続けて実用に供されてきた血圧計の生みの親、コロトコフのことを私たちは忘れてはなりません。彼の発見の価値は、X線や心電図の開発と同じくらい高いとも言われています。

 世界高血圧連盟 World Hypertension Leagueが、今年の9月、ロシアのセント・ピータースバーグで、N.コロトコフ記念国際学会を開催する(WHL・NEWSLETTER No.99、05年2月)というのも当然のことと頷けます。

 1874(明治7)年、ロシアのクルスクの商人の家庭に生まれたコロトコフは、1893年にモスクワ大学を卒業して医師になったあと、招かれてセント・ピータースバーグにある陸軍・軍医学校の外科教室に勤務し、日露戦争(1903〜1905)中はハルビンの赤十字病院の外科医長となります。そこで血管外科に興味を持ち、学位論文のテーマとして症例の収集を開始します。

 帰国後の1905(明治38)年4月から論文作成の準備にかかり、わずか数ヶ月で間接的血圧測定法の基礎となるコロトコフ音を発見し、後世に名を残すことになります。と言っても直ちに有名人にならなかったことは、ロシア医学百科辞典の最初の3版まで彼の名は出ていないことからも分ります。

 さて、31歳のコロトコフがロシア帝国陸軍アカデミーに発表した血圧測定法についての技術論の箇所は、1頁にも満たない281語であったそうです。英訳(オリジナルはもちろんロシア語です)された全文は次のとおりです。

 「リヴァ・ロッチのカフ(駆血帯)を上腕の中央3分の1に置き、カフの下の循環血流を完全に止めるまで急速にカフ内の圧を上昇させる。ついで血圧計の水銀柱を下げてゆき、小児用聴診器でカフ直下の動脈(音)を聴取する。最初、音は聞こえない。水銀柱を一定の高さまで下げてゆくと最初に短い音が聞こえるが、これはカフの下を脈波の一部が通過したことを意味し、この時点の圧が最高血圧に一致している。さらに水銀柱を下げてゆくと、収縮期性の雑音が聴取され、第2音に変ってゆく。最後にはすべての音が消える。この時、脈波が自由に通過していることを意味している。つまり、動脈内の血圧がカフ内の圧を上回っていて、最小血圧と一致している。」

 コロトコフはその後も動物実験を重ねて自分の学説を補強し、5年後の1910年には学位を取得しますが、彼の血圧測定技法は次第に全世界に普及することになります。

 ついでながら、彼はロシア革命後も新政府から受け入れられ、1920年に死亡するまでレニングラードのメチニコフ病院長として勤務したのです(www.whonamedit.com 英文 を参照)。

 現在では上腕に巻くカフの幅や、位置と高さ、カフ圧の減圧スピードなどについてより詳細な基準が決められていますが、100年前に彼が記述した測定方法は、ほとんど修正しないまま今日でも通用しているのですから、彼以前の誰もが見逃していた大発見だったと言ってよいでしょう。

 すでにお分かりのとおり、ここでいう血圧というのは上腕「動脈」の内圧のことです。血液が心臓から出て全身の隅々まで行き渡った後、再び心臓に戻ってくるという「血液循環論」を確立したのは、イギリスのウイリアム ハーヴィ W.Harvey(1578〜1657)でした(「動物における心臓と血液に関する解剖学的研究」1628年)が、この研究によって近代医学が幕を開けたというのが通説です(川喜多愛郎「近代医学の史的基盤」)。

 それより以前から動脈と静脈が存在することは分っていました。なかでも内科医よりも社会的地位の低かった「床屋医者」と呼ばれていた外科医、たとえばアンブロアズ パレ A.Pare(1510頃〜1590)は、中世以来信奉されてきたガレノス医学(静脈血は肝臓から心臓へ、動脈血は心臓から全身へ、それぞれ一方通行で流れるという)を勉強していましたが、戦傷者の治療にあたり、血管結紮術をすでに実用化していました。因みに今も理髪店の店頭に必ず設置されている赤青白3色の回転看板は、赤が動脈、青が静脈、白が包帯を表している床屋医者のシンボルの名残なのです(青木国雄「医外な物語」)。

 しかしハーヴィには、心臓を一種のポンプと見立てる独創的な発見をしたにもかかわらず、血液を循環させる流体力学、つまり血管内圧という概念がまったく欠けていたという弱点がありました。さらに言えば、顕微鏡の使えなかった彼には、末梢での動脈から静脈へ移るつなぎ目(つまり毛細血管のことです)や、逆流を防ぐ静脈弁についての記載がありません。だからといって、彼の偉大な功績をいささかでも貶めることになってはなりません。

 では初めて生身の動物で血圧を測定したのは誰かというと、イギリスの神学者、かつ科学者であったステファン ヘールズ S.Hales(1677〜1761)でした。彼自身の記載によると、メス馬の太ももの付け根にある大腿動脈を露出して、糸をかけて結紮してからその血管内に真鍮管とガラス管(ともに口径6分の1インチの)をつなぎ、次いで、かけておいた糸を緩めると、血液が管内を垂直に心臓の位置から8フィート3インチの高さまで拍動しながら上昇したのでした。1733年のことです。まさに今日でいう血圧の直接測定第1号でしたが、動物実験だからこそできた研究でした。

 実際にヒトに侵襲を加えない間接的に血圧を測定したのは、さらに遅れて、指を手首の内側に当てて脈をとる昔からの橈骨(とうこつ)動脈の拍動を用いる方法でした。1876年のフォン・バッシュらを経て、いまも水銀血圧計にその名を残す、イタリアのリヴァ・ロッチ S.Riva−Rocci(1863〜1937)によって、上腕をカフで圧迫して橈骨動脈の拍動を止めたのち、徐々に圧を下げながら、再び橈骨動脈の拍動が触れるときの圧を読み取って血圧を測定する、触診法が考案されたのです。1896年のことですから、ヘールズからは1世紀半以上も後のことでしたが、その9年後にコロトコフの聴診法が生まれたのです。

 動脈の拍動を指で触診するか、聴診器を使って血管の音(「コロトコフ音」と呼ばれています)を聴取するかだけの違いです。しかしその精度や客観性に格段の差があることが実証されて、100年間実用されてきた不滅の技法になったのですが、まさに「コロンブスの卵」的な発見でした。

 昭和の初めまで、「水銀体温計」が医者の独占的技術だったと言っても今では信じてもらえないくらいの昔話になってしまいました。現在の家庭では、有害な水銀に代わり、また測定部位も腋下ではなく鼓膜温を電子体温計で測るのが当たり前になっています。

 同じように、血圧計も医者しか測定できない時代から、一般人がコロトコフ音を聴診器で聴取して測定する時代を経て、今日ではカフに埋め込んだマイクロフォンでキャッチするタイプの家庭用血圧計がどんどん普及するようになりました。一般人が家庭で血圧測定をする啓蒙運動を30年も前から指導してこられた日野原重明・国際聖路加病院理事長の先見の明には、改めて敬服しています。「白衣高血圧」のあることが分ってきたのもこのような先駆者がおられたおかげだと言ってよいでしょう。

 コロトコフ音については、初めて音の聞こえる第1点(収縮期血圧)から音が消失する第5点(拡張期血圧)まで、音の性質が連続的に変化するのですが、なぜ音が生じ、また、なぜ変化するのか、詳細は専門的ですので割愛しますが、短絡して申しますと、外圧により血流が阻害されたときに生じる血液の渦のエネルギーが、物理的に音に変換されるのだと説明されています。

 コロトコフ音の誕生を血液循環論にまで遡ってざっと振り返ってみました。何でもないことのようですが、生活習慣病の代表格であり、サイレント・キラーとも言われる高血圧の予防と治療に計り知れない貢献をしてきた、簡単で正確なコロトコフの間接的血圧測定の意義はいくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

                                           (2005年7月6日)

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