ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.46 神沢杜口の「老いの生き方」
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 神沢杜口(かんざわとこう)をご存知の方はほとんどおられないのではないかと思います。日本歴史の教科書はおろか、普通の歴史人物辞典にもまず出てこないのでとても有名人とは申せません。これまで何度もご登場いただいた立川昭二先生は、この人物の老いの生き方に惚れ込んで、多くの著書のなかで紹介されています。ついには神沢杜口と彼の大著「翁草」について、単行本まで刊行されているほどです(「足るを知る生き方−神沢杜口『翁草』に学ぶ−」 講談社 2003年)。短絡して言うなら、杜口は立川先生ご推薦の江戸時代におけるご隠居代表というわけです。

 まず大著と言いましたが、杜口が著した「翁草 二百巻」とはどんな書物でしょうか。完成したのは寛政3(1791)年で、その時彼は82歳でしたので、彼のライフワークそのものです。いわゆる随筆集なのですが、純然たる随筆だけでなく、成書をそのまま筆写しているものも多く、随筆と言うよりは叢書というのに近いのだそうです。内容はきわめて多岐にわたり、自らが生きた当時の社会・人事・文化・風俗全般を網羅した情報が書き込まれている、いわば「江戸版インターネット」(立川昭二:日経マスターズ 2004年7月号)とも言える書物です。

 現在彼の「翁草」が読めるのは、それまで写本でしか伝えられていなかったのを、明治39(1906)年、池辺義象(よしかた)の校訂によって、初めて活字本として刊行されてからです。さらにこれをもとにした6巻からなる「日本随筆大成 第3期19〜24巻」(吉川弘文堂 昭和53年)が出版されています。A5版のハードカバー6巻分のページ数は、2,845頁(立川先生の換算では400字詰1万枚分だそうです)にも及んでいます。しかも「あまねく世にありふれたるもの」34巻分は割愛されてのことですから、まことに厖大なもので江戸時代を通じて質量ともに群を抜く大著であることは言うまでもありません。

 あの森鴎外の名作、「高瀬舟」や「興津弥五右衛門の遺書」の素材は、この翁草から得ていること、また、永井荷風も杜口の執筆姿勢に感動して、戦時中自分が時局のことを憂慮して不平憤惻の文字を切り取ったことを恥じて、「今日以降余の思ふところ寸毫も憚り恐るる事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし」と日記(昭和16年6月15日)に書き付けていることだけからも、価値の高い書物ということがご理解いただけましょう。

 では、神沢杜口(1710〜1795)とはどんな人物だったのでしょう。

 宝永7年、大阪の生まれで、11歳のときに京都の神沢家の養子となり、家付きの娘と結婚、幼名与兵衛、長じて貞幹と称し、杜口、可々斎、其蜩庵(きちょうあん)、楽書堂などの号があります。20歳頃に養父の跡を継いで京都町奉行の与力(200石)となります。今でいう年収1千万円クラスの公務員で、管理職の目付にまで昇進しますが、勤務すること20年、40歳頃病弱を理由に退職して、娘婿に跡を譲って後半生の隠居生活を始めます。数え年86歳で世を去るまでの40数年間、好きな俳諧(有名な与謝蕪村の俳友でもあります)のほか、この翁草や「塵泥(ちりひじ)」五十巻等大部な著作の編述に没頭するのです。

 友人の医家橘南谿に晩年の本人が語ったところによると、平生は温厚柔和にして遠慮勝ちなのがよい。しかし筆を執るときは聊かも遠慮の心を起こすべきではない。遠慮して世間を憚りては実を失うことが多い。自分が著す書には、「天子将軍の御事にても聊遠慮することなく、実事のまま直筆に記す」と述べています。これに深く感銘して南谿は、「誠に翁が志操毅然として奪ふべからず、実に古の良士の風ある人なりき」と賞賛を惜しみませんでした。荷風が感動したのはこの執筆態度のことです。

 彼の前半生である公務員としてのサラリーマン時代の心得として、第1に目付に昇進しても趣味の謡曲、俳諧、囲碁の遊びは止めなかったと言い、「陰の慎み」、つまり勤務外での生活を慎み、「余技のすすめ」を大切にします。第2に「気分転換のすすめ」を説いて、何事もやり過ぎると怪我をすると戒めています。

 こうして黙々と無事に役所を勤め上げる(杜口とは口をふさぐという意味)のですが、彼の人となりを窺い知る逸話の一つにこんな話を残しています。

 歌舞伎の「白波五人男」に出てくる有名な盗賊日本左衛門の一党中村左膳を、京から江戸へ護送する任にあたったときのことです。道中命がけで役目を果たした杜口が左膳に別れを告げると、左膳は杜口の親切に感謝して落涙したのに、その心ざまに不覚にも自分も涙したと言います。犯罪人の心にも人間味を感じ取る杜口のただの役人気質ではない優しい人柄がにじみ出ているではありませんか。

 後半生の俳諧と著述に没頭した私生活の秘訣は何だったのでしょう。

 まず引退して隠居になってからは、家禄の一部を受け取って、一種の年金として生活の資に当てているのです。経済的に生活の安定が第一だからです。

 杜口は44歳で妻に先立たれますが、以後は独身を通します。しかも婿養子一家とは同居せずに、生涯独り暮らしを選択します。つまりときどき会う方が「遠きが花の香り」でお互いに嬉しい心地がするものだというのです。

 しかもふつうの老人なら「終の?(すみか)」を定めて落ち着こうとするのに対して、杜口は「転居暮らし」を実践します。何と18回も京都市中を引越したと言いますから、2年半に1回は引越しをした勘定になります。

 それはこの世が仮の世であることを忘れないためであり、また彼のモットーである「足るを知る」の生き方からきているのです。われわれ現代人の習性ともいえるマイホーム願望どころか、家族だけでなく家や土地といった財産にも執着しない、日本人としてはきわめて稀な自由人だったと言えましょう。

 独り暮らしの自由人といっても、杜口は日本古来の出家でもなければ、行脚の生き方をしたのでもありません。人間と社会に対しては旺盛な好奇心を抱き、あらゆる情報や事件を貪欲に追い求め、記録魔のように書き綴ってゆくのです。まさに杜口流そのもので、仏教とも儒教とも距離をおく、近代的なバランス感覚ある人物でした。

 日本古来の厭世的で消極的な生き方とは正反対に、楽天的で積極的な、ユーモラスでさえある生き方をしたのです。

 しかも田舎暮らしでなく、京都の都会暮らしを選んでいます。贅沢な生活とは言えませんが、暖かい木綿の衣服と白い米に味噌醤油さえあれば、これが「都会の美」でなくてな何であろうと書いています。

 独り暮らしで生涯ライフワークに没頭できるために、経済的に安定した生活ができて、世間や家族に煩わされないこともさることながら、何よりも心身ともに健康でなければなりません。

 前半生は病弱だった杜口が、80歳半ばまで矍鑠として仕事ができたのは、偏に養生の賜物であったと言います。彼の養生法は貝原益軒の流れに沿うもので、何よりも「気」を基本として、「我独り、心すずしく楽しみ暮らすゆえに、気滞らず。気滞らねば百病発せず」の養生でした。

 また歩くことこそ養生とばかり、老いてもひたすら歩いています。80歳になっても一日5〜7里(20〜28キロ)も歩いて疲れません。ある日競馬を見ようとして、懐の握り飯をほおばりながら、京都の町を西に東に(藤杜、加茂)と一日中歩き廻るのでした。75歳のときにも、友人と一緒に京から吉野までの往復80里(320キロ)を13日かけてほとんど歩き通したという記録を残しています。杜口にとって生きることとは、書くことと歩く事だったと言っても過言ではないでしょう。

 生死の覚悟も常日頃のことであって、何も臨終に遺言したり辞世なども無い方がいいと言って、「辞世とはすなわち迷い只死なん」と、終焉静かに眠るが如く息を引きとったのです。

 立川昭二先生が、神沢杜口こそ愛しさがこみ上げてくるような「老い生き方」の達人だったと仰るのに大賛成の私ですが、皆さんはいかがでしょうか。

                                           (2005年6月15日)

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