ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.45 杉田玄白は「九幸」老人でした
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 医者でなくても、杉田玄白の「解体新書」と「蘭学事始」を知らない人はいないでしょう。江戸時代の中期に蘭学を創始し、その後の隆盛がわが国の医学のみならず自然科学の発展に寄与したのですから、彼の不朽の功績は計り知れないものがあります。解体新書については興味深い逸話が山ほどありますが、それはさておき、今回は江戸時代の幸せな老人代表として杉田玄白(1733〜1817)にご登場願うことにいたしましょう。

 玄白は晩年、需めに応じて清書した一紙に「七十翁九幸」と署名していますが、数え年85歳で亡くなるまで、好んで「九幸」の号を使用したのでした。九幸の意味は、本人が語ったところによると次のとおりです(片桐一男 「杉田玄白」 吉川弘文堂 昭和61年 新装版)。

 一に泰平に生まれたること。二に都下に長じたること。三に貴賎に交わりたること。四に長寿を保ちたること。五に有禄を食んだること。六にいまだ貧を全くせざること。七に四海に名たること。八に子孫の多きこと。九に老いてますます壮なること。

 立川昭二先生はこれを評して、近世日本の最高の知識人たる人物が抱いていた人生観そのもだと言われています。さらに言葉をついで、「この個人主義・家族主義・現世主義に根ざした幸福感は、現代日本人にもそのまま通じる。仕事に生き甲斐をもち社会に眼を向けるだけでなく、周囲の人間関係に執着し、地に足のついた生活を重んずる内向きの生き方、この生活者玄白・都会人玄白の生き方は、こんにちの日本人の生き方そのものといえる。」と仰います(「江戸人の生と死」 ちくま学芸文庫 1993年)。

 事実関係を少し補足しておきますと、彼は親の代から若狭国小浜藩のいわゆる御典医として、生涯江戸詰め勤務で藩主とその家族お抱えの医者でした。当然有禄でしたし(73歳で御近習頭格、二二〇石)、医者として藩邸に宿直もしていましたが、それ以上に江戸市中きっての名医の誉れ高く、晩年にいたるまで貴賎の患者を往診するのにかけ廻っています。しかしちゃかり高収入を得ていたようで、克明に記録されている彼の日記(「?斎(いさい)日録」)には、寛政12(1800)年(数え年68歳)と翌享和元年の年収は、それぞれ何と621両、643両(ともに端数省略)と記載されております。これらが最高額ですが、57歳から72歳まで毎年400両以上の収入があったのです。かの江戸時代を通じての流行作家・滝沢馬琴の雑収入込みの年収が最高でも40両を超えなかった(天保2年、65歳当時)そうですから、これと比較しても玄白の収入が桁外れに大きかったことがわかります。

 健康長寿であったことの秘密の一つは、やはり養生にあったと彼自身語っています。

 彼の古希の前年、享和元(1801)年の夏、有卦(7年間吉事がつづくという年回り)に入る日に、一族や門人が祝宴をはって、不のついた七品を贈って玄白の健康長寿を祈ったのです。これに応えて玄白は、子孫のために養生の大要を七不に因んで書き記し、「養生七不可」と題した書をお返しとして贈りました。以下の7か条です。

 一、昨日の非は恨悔すべからず。

 一、明日の是は慮念すべからず。

 一、飲と食とは度を過ごすべからず。

 一、正物に非ざれば苟しくも食すべからず。

 一、事なき時は薬を服すべからず。

 一、壮実を頼んで房を過ごすべからず。

 一、動作を勤めて安を好むべからず。

 それぞれの条下には、和漢蘭の書物や実例を引いて周到な解説を試みています。あとがきでは、生来病弱だった自分がいまこんなに健やかでいられるのは、病気が治ったのではなく、養生によるものだと述懐するのです。

 その彼が文化2(1805)年正月二日の日記に、「翁享保18年9月13日出生至今日72年6ヶ月16日此日数2万6千16日」と書いた後で、この日数を織り込んだ漢詩を作っています。正月を迎えるたびに、漫然と歳を思うのではなく、科学者である彼は自分の歩んで来た一日一日をきちんと再確認し、そして今日という老いの一日をしかと胸に刻みつけるのです。さいごの一日までをおろそかにしないところに、老いてなお衰えを見せない精神の強靭さを感じさせます。

 そして83歳になり、絶筆のつもりで50年前をありありと回想した「蘭学事始」を書き上げます。しかしさらにその翌文化13年の正月には、84歳の玄白は筆をとって、肉体的遺書ともいうべき「耄耋(ぼうてつ)独語」(老いぼれのひとり言)を書きます。自虐的とも言えるほど冷徹な目で己の老残の姿を客観的に描いています。

 全文は芳賀徹の現代語訳(「中公クラシックス J24 杉田玄白 蘭学事始ほか」、中央公論新社 2004年)に譲るとして、眼、鼻、耳、口という上の七竅(げき)(七つの穴)の不自由はもちろん、下の二竅、つまり肛門と陰茎の不便と苦労について、実に生々しい情景描写をまじえながら、赤裸々に述べています。まず、肛門は毎日の飲食の糟粕を排泄する第一の要所であるから自由でなければ困る。どの老人もそうであるように私も便秘がちで、脱肛もあってなかなかおさまらず、すぐに座につくこともできない。いろいろ手当てし、お湯で蒸して暖めてやっとおさまると、はじめてわが身がわが身のように感じられるという始末である。

 小水の方はもっと大変で、年を追って小水の回数は多くなり、夜も昼もひっきりなしである。ことに冬の肌寒い日などは、一度用をたした後も、たちまちたまるかのようで、いつまでも残りのしたたりがつづき、まるで清水がぽたぽた垂れているような感じで心安らかでない。わけても高貴の人の座につらなっているときは、なにか尾籠なことをしでかしはしないかと、心配で落ち着かない。そしていよいよ出そうな感じになって、いそいで便所へ行っていざ用をたそうとすると、陰器が縮まって自由にならず、思わぬ方向に飛び散ったりする。家では竹の筒など使って用をたしているが、何事につけてもこの調子だから、老人たることの辛さは数限りもない、と縷々泣き言をひとり言しています。

 敬愛する佐々木直亮先生もどこかのエッセイで、「玄白のひとり言は、他人事ではない。」との感想を書いておられます。

 ところで、耄耋というのは人生の年齢区分を表す言葉で、当時の百科事典「和漢三才図会」によるとつぎのように解説しています。

 童(15歳以下)、弱(20歳、柔弱だから)、壮(30歳、丁壮だから)、強(40歳、堅強だから)、艾(がい、50歳、髪の毛がもぐさのように蒼白いから)、耆(し、60歳、仕事を指で指図するから)、耄(70歳、頭髪が白くて耄耄としているから)、耋(80歳、皮膚が黒くなり鉄の色のようだから)、「魚台」背(たいはい、90歳、背中にふぐのようなしみができるから)。

 いずれにせよ立川先生は、玄白が最晩年に書き上げた「蘭学事始」と「耄耋独語」の二つの著作を、数ある彼の作品のなかでもっとも光彩を放っていると激賞しておられます。もちろん玄白ご本人が知る由もないわけですが、後世の学者からこうまで言われるとは、まさに至福の人生を全うした人物というしかありません。

 いよいよ玄白の本当の絶筆は、文化14(1817)年の春先に書かれた「医事不如自然(医事は自然にしかず) 八十五翁九幸老人書」です。玄白が一つの道を求め続けて到達し得た究極の一言であり、人世に対する達観の名言(片桐一男)となっています。

 この書を書いて間もなく、ふとしたことから健康を害したのでしょうか、子弟、知友に見守られて、よく晴れ上がった4月17日に数えで85歳の生涯を閉じたのでした。

 芝、天徳寺の塔頭・栄閑院(現在の虎ノ門3丁目にあるそうです)に葬られましたが、戒名も「九幸院仁誉義真玄白居士」でした。

 われわれも彼にあやかり、9つとは言わずとも3つや4つでよろしいので、かけがいのない自分自身の幸せを持って死にたいではありませんか。

(注)文中「魚台」とあるのは、正しくは魚偏に台で「ふぐ」と読みますが、ワードでの表記ができず分割して記しました。

                                           (2005年6月1日)

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