ドクター塚本 白衣を着ない医者のひとり言 | ||||||
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戦争末期に「学童疎開」をした経験者もおられるでしょうが、私も縁故疎開で6年生の二学期から入れてもらった学校の同期生たちです。牛窓町(昨秋からは合併して瀬戸内市となりました)は、今では「日本のエーゲ海」の名を辱めない観光名所として有名になっています。当時は神功皇后所縁の伝説・「牛転(うしまろび)」が転訛した地名だと言われる、古くからの瀬戸内海帆船の風待ち港の町でした。 参加した全員が古希をとっくに過ぎた紛れもなき老人です。しかし戦前の童謡「船頭さん」(竹内俊子作詞)に出てくる、「村の渡しの船頭さんは/今年60のお爺さん」的な老人(老婆)は一人もおりませんでした。もちろん全員「老齢年金」受領者ですから、法律上も老人には違いないとはいえ、一泊二日のバス旅行ができるのですから一向にお爺さん、お婆さんらしくありません。 とはいえ老年学の教科書とおり、彼らの老化の程度にはアタマの髪の毛がフサフサして顔の色艶も良い万年青年から、脳梗塞の後遺症のため杖歩行の人まで、個人的にはかなり大きなバラツキがあります。つまり老化の進展には年齢(厳密には暦年齢)だけでは決められない「個体差」があります。 もう一つ印象付けられたのは、男子全員が食後すぐに予ねて用意の常備薬をそれぞれごそごそ出してきて服用していたことです。ワーファリンの常用者が数人いたのですが、不整脈の既往歴をもつ人のようでした。なかにはアルコールの処理力がまったく衰えていなくて、三食ともにビール、日本酒、焼酎を立続けに飲む豪の者もおられましたが、彼は予防的にクロレラ、マカなどのいわゆるサプリメントを何十年も使っているからだと自慢していました。 もちろん60年前の遠慮のない昔話に花が咲いたのですが、お互いに貧しかった少年時代を懐かしみながら、この60年間のわが国社会の激変ぶりに感慨一入でした。 今回の同窓会での印象をきっかけに、「老年、老人、老化」について考えてみようと思いました。まずは身体の外観的な観察からみた老化を、先人はどのように見ていたかをご紹介することから始めてみましょう。 江戸中・後期の幕臣に根岸肥前守鎮衛(やすもり)(1737〜1815)という人がいます。彼は扶持米百五十俵の御徒歩組頭の三男に生まれ、養嗣子となって根岸家を継いだのですが、優秀な役人だったとみえてめざましい立身出世をとげたのです。第9代から第11代まで3人の将軍に仕えて、御勘定から留役、組頭、吟味役(安西篤子によると今の取締役クラスだそうです)とトントン拍子に昇進いたします。その後、1784年、47歳で佐渡奉行に任じられて赴任。3年後には江戸へ戻って勘定奉行に栄進し、1798年には町奉行に転じました。還暦を過ぎていたのですが、死の直前の78歳までこの職に留まったと言いますから、まさに江戸時代における生涯現役の代表選手だったのです。 彼の著作「耳袋」は、松浦静山の「甲子夜話」と並んで、江戸時代の世相を手っ取り早く知るには最適の随筆集と言われています。自序の冒頭に、「此耳嚢は、営中勤仕のいとま、古老の物語或閑居へ訪来る人の雑談、耳にとどまりて面白きと思いし事ども、又は子弟の心得にもならんと思う事、書き止めて一嚢に入れ置きしに、塵積り山とはなりぬ ・・・・ 」と書いているとおり、佐渡奉行在勤中から執筆を始め死の前年まで約30年間に、十巻、各巻百条、計一千条から成る大部な作品です。面白いと思ったというのですから、幽霊、妖怪、狐狸、勇ましい女、蘇生した老人等々が、順不同に書き並べてあります。 彼の人柄は悪くなく、その最も長所と思われるのは、他人の美点を認め、短所をいたずらに非難しないことだったそうで、役向きにおいても各人の長所を活用して和を図りながら、能力を発揮させて成績をあげたのでしょう。とにかく成り上がり者にありがちな陰険な小細工を弄するといった印象がまったくない人物だったと言われています(鈴木棠三)。 さて、前置きが長くなりました。本題の老人問題ですが、この「耳袋」巻の四に、「老人へ教訓の歌の事」という一条があります。これには知人の望月老人がもたらした狂歌が載せられています。作者は尾張藩の千五百石取の名門藩士、横井也有(1702〜83)で、俳文集「鶉衣(うずらごろも)」の作者としても有名な教養人です。 也有の狂歌は7首ありますが、それぞれに根岸鎮衛の注釈が書き込まれています。 順にご披露しましょう。「・・・」が元の狂歌で、(・・・)は根岸鎮衛の短評です。 「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」 「手は震う足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとうなる」 「よだれたらす目しるはたえず鼻たらすとりはずしては小便もする」 「又しても同じ噂に孫じまん達者じまんに若きしゃれ言」 「くどうなる気短になる愚痴になる思いつく事皆古うなる」 「身にそうは頭巾襟巻杖眼鏡たんぽ温石(おんじゃく)しゅびん孫の手」 「聞きたがる死にともながる淋しがる出しゃばりたがる世話やきたがる」 以上を総括して根岸鎮衛は、(これを常に姿見として己れが老いたるほどをかえり見たしなみてよろし。しからば何をかくるしからずとしてゆるすぞと)と結んでいます。 最後に、自分の時間を好きなように使って生きられることこそ老人の特権だという彼自身の感想を歌に託して一首ものしています。 宵寝朝寝昼寝ものぐさ物わすれそれこそよけれ世にあらぬ身は まさに江戸時代の文化人、名奉行、根岸鎮衛の洒脱の極致ではないでしょうか。 最後にひと言。幸い集まった同期生たちは、まだまだ総合して老人の域には達していなかったというのが「ひとり言」子の診断結果でした。皆さんにはどれくらい心当たりの箇所があったでしょうか。また、自己診断はいかがでしたか。 <参考資料> (2005年4月20日) |
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