ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.41 森鴎外のうち立てた「兵食論」
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 明治・大正期の文豪と言えば、夏目漱石とともに「漱鴎」と並び称される鴎外・森林太郎(1862〜1922)がいます。鴎外が陸軍軍医総監を務めながら、二足の草鞋の作家生活をつづけた「白衣を着ない医者」だったこともよく知られています。

 漱石には大勢の弟子がおられ、人気抜群のいわゆる国民作家であったのに対して、鴎外の方は、一口では言い表せない難しい複雑な性格の人物だったようです。もちろん沢山の鴎外研究者がいますし、鴎外関係の研究資料は遺品とともに彼の旧居「観潮楼」跡にある鴎外記念図書館(文京区)で閲覧することもできます。

 「ひとり言」子の母校出身の先輩医師のなかにも、本格的な鴎外研究家が3人もおられるくらいです。(敬意を表して名前と書名をあげますと、伊達一男 「医師としての森鴎外 正続」(積文堂出版 昭和56年 平成元年刊)、丸山博 「森鴎外と衛生学」(勁草書房  昭和59年)、浅井卓夫 「軍医鴎外 森林太郎」教育出版センター 昭和61年)です)

 その鴎外にも大きな弱点があって、研究者もタブー扱いして取り上げたくなかったテーマに、実は脚気があります。前回ご紹介した高木兼寛の海軍が当時の脚気対策に見事な成功を収めたのと対照的に、陸軍の脚気対策に根本的な誤りがあったことは、当時から一部の関係者、識者、それに直接の被害者であった陸軍の患者兵士の間でとっくに囁かれていた公然の秘密であったと言われています。

 しかし、長い間公にされることなく不問に付されてきたのは、文豪鴎外という文名の高さと、陸軍、帝大官僚という巨大な組織と名誉のためだったのです。

 ビタミン学者・山下政三によると、鴎外の誤りを最初に公的に指摘したのは、東大医学部の山本俊一教授(「公衆衛生」 昭和56年)だったそうです。鴎外の死後ほぼ60年が経過した後のことでした。封印されていた秘密の扉を開けて、新たな視点から悲劇的な個性の持ち主、鴎外の評伝を書かれたのが、今回ご紹介するカフカの研究・翻訳の第一人者、坂内正です(「鴎外最大の悲劇−兵食問題の行方−」 新潮社 2001年5月刊)。

 鴎外は明治14(1881)年に東大医学部を最年少(入学時に年齢を実際より2歳上と詐称して入学したからです)、第8席で卒業(ご存知の同期生、中浜東一郎は第3席)しますが、一時父君の橘井堂医院で診療の手伝いをしたの後、陸軍省に入り、明治17年にドイツへ留学をします。当時の留学生は今日とは比較できないくらいのエリートコースです。彼の留学の目的は、陸軍から派遣されて軍陣衛生学を専攻することでしたが、なかでも陸軍がこの俊秀に期待したのは、兵食の標準を学問的に研究し確定することでした。当然のことながら明治政府にとって、軍隊という巨大な団体生活者の組織を戦力として運用する前に、まずこの集団に健康な日常生活を営ませ、給食を行ってこれを養い、一朝有事の際には大量かつ迅速に移動させるシステムを構築するのが必須のことでした。その上陸軍は、大量の集団生活には付き物と言われていた脚気の蔓延に苦しんでいたのです。脚気は伝染病か否かを病理学的に解明することはもちろん、どうすれば予防することができるかという実地対策も緊急の課題でした。若い22歳の鴎外に課せられた公務としての研究テーマが脚気そのものだったというわけです。

 ずば抜けた語学の才能と猛烈な勉強家の鴎外は、明治17年秋にライプチヒ大学のフランツ・ホフマン F Hoffmann教授(衛生学)の指導の下、早速日本食の栄養学的分析・評価という研究に取り組みます。自分の身体を実験台にした実験的研究と、日本から持参した資料、東大で指導を受けたベルツらの先行業績も参照して、明治19年にドイツ衛生学会の公式年鑑「衛生宝函」に独文の論文「フォイトの立場より見たる日本兵食」(通称「日本兵食論」)を発表します。彼の独逸日記には、前年明治18年10月には「日本兵食論大意」を書き上げていたことが記されているので、留学直後の1年間、彼が課題に精力的に取り組んだ様子が目に浮かびます。

 この論文の趣旨は一言で言うなら、当時日本食(米食)に対する内外からの否定的意見には科学的根拠がなく、栄養学の権威カール・フォイト K Voit ミュンヘン大学教授(生理学)の学説に照らしてみても十分に合格点に達しているものであるので、わが国陸軍兵士の給食も現行のものに多少の改良を加える程度で、優に近代科学の要請に応え得るものとなる、ということを論証しようとしたのです。

 明治21年、4年ぶりにドイツ留学を終えて帰国して鴎外が見た日本は彼の期待を裏切るものでした。いわゆる近代化の運動にしても至るところで偏向と極論が横行し、何よりも厭わしいのは盲目的な西欧文明崇拝の風潮が蔓延していることでした。日本人の食べ物にしても、米食は人間の食餌としては劣悪であって、日本人の体格の貧弱、ひいては知能の劣等もこれに起因すると論じる「非日本食論」が強い勢力を持っていました。彼は帰国直後の大日本私立衛生会で、「非日本食論ハ将ニ其根拠ヲ失ハントス」という情熱的で格調の高い講演を行っています。

 これら2つの論文は、学問的労作としてみるとまことに堂々たる文章で、科学的方法論についても非のうちどころのない正論でした(小堀桂一郎 「鴎外選集 第11巻」(岩波書店 昭和54年)の解説)。当然のことながら米食派に立つ陸軍内部からは、諸手を上げての賛同者(分りやすい一例として、軍隊の迅速な移動にパン焼き釜の構築ができないからという論者)が輩出することになり、以後彼の「兵食論」は彼らの金科玉条となるのです。たしかに前回も申しましたが、高木兼寛のN:Cの比率が脚気の原因だとする説は明らかに誤りであり、それを立派に論破した鴎外の実験的・帰納的研究の論理は正しかったし、彼は自分の論文に絶大な自信を持っていました。そして一旦立てた自説への執着、他人の批判を許さない独尊性、さらに持って生まれた彼の負けず嫌いの気性が、「鴎外最大の悲劇」の根源となっていると坂内正は決めつけています。

 日露戦争における陸海軍の脚気統計を示すと歴然としています。「医海時報」(明治41年10月)に準拠した坂内正の調査によると、陸軍の全傷病者35万2千7百余名中、内輪に見て21万千6百余名、他病に算入されている者を含めて推定すると、「少なくとも25万」、戦病死者3万7千2百余名中脚気によるもの2万7千8百余名(約75%)、参戦した陸軍総兵力約百8万8千、戦死者4万6千4百余名に照らしても、「脚気惨禍」と呼んでもおかしくない状況でした。昭和になって公刊された「陸軍軍医学校50年史」でも、その実数は糊塗されながらも、「古来東西ノ戦役中殆ト類ヲ見サル所ナリ」と書かざるを得ないような惨状だったのです。

 一方の海軍省医務局の発表によると、日露戦争中の脚気患者は87名、同病による支社は3名でした。

 彼の論文がいかに正しくとも、脚気の予防も治療もできなかったことが明々白々です。鴎外の非現実的な原理原則主義が実践的対策の機敏さを鈍らせて、高木兼寛の経験的事実尊重のイギリス衛生学に敗北したことは明らかです。

 しかし秀才だった彼は、若き日の自らの誤りに気づきながら、終生、敗北を認めなかったのです。丸山博や伊達一男は、医師としてなかんずく医学統計学者として、また環境衛生学の啓蒙家としての鴎外を高く評価していしています。しかし彼の晩年の大著、「衛生新篇第5版」(大正3年)は、臨時脚気病調査会・会長時代に出版されたのですが、脚気は「疫種」(つまり伝染病)のなかに分類されています。しかもコレラ、チフスについて伝播経路、潜伏期間、発症、転機などが詳述されているのに、脚気ではこれらの記載が一切ありません。何とも不可解なことと言わなければなりません。会長の鴎外は、脚気の白米原因説に必然的に結びついてゆく脚気栄養障害説の学者らの意図を実現させないための態勢作りの場に、臨時脚気病調査会を仕立て上げたとまで坂内正は手厳しく酷評しています。

 日本の近代化になくてはならなかった偉人、文豪、文明批評家であった森鴎外も、所詮は「神様」ではなかったとしか言いようがありません。

                                           (2005年4月6日)

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