ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.40 脚気をなくした男 高木兼寛
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 かれこれ50年も昔の医学生、つまり私にとってビタミンとは、詰め込みで教えられたビタミン欠乏症のことでした。いわく、ビタミンA(欠乏症)は夜盲症、ビタミンB(厳密にはB)は脚気、ビタミンCは壊血病、ビタミンDはくる病、・・・と言う具合です。なかでも脚気は、古くから日本人にはなじみの深い国民病でした。ご記憶があろうと思いますが、内科診察室の医師のデスク上には、必ず頭がゴムで出来た小ハンマーが置かれていました。膝小僧をむき出しにして脚を組まされ、このハンマーで膝のちょっと下を叩かれると脚がぴょこんと跳ね上がる、あの「膝蓋腱反射」の検査は内科診察には欠かせないものでした。 

 何時ごろからかこれを目にしなくなったのは、やはり高度成長期に入り、いわゆる飽食の時代を迎えた頃からでしょうか。毎日カップラーメンだけといった極端な低栄養の偏った食生活でもしない限り、今では脚気を発症する日本人はいません。栄養欠陥症の代表だった脚気はすでに忘れ去られた病気の一つになってしまいました。

 脚気という病気は忘れ去られても、当時はなかった栄養欠陥症という考え方でこの病気を克服しようとした先駆的な日本人医学者のことを忘れてはならないと思います。この人は今日でいう「栄養疫学」、「野外実験疫学」、「介入研究」のわが国における開祖でもあったのです。高木兼寛(1849〜1920)その人です。彼は海軍軍医総監、東京慈恵会医科大学(前身は成医会講習所)と日本で最初の看護婦教育所の創立者として有名かも知れません。明治史にお詳しいと、「麦飯男爵」というニックネームで親しまれていることをご存知でしょう。

 ごく一部の専門家にしか知られていませんが、南極大陸の地名には、世界の著名なビタミン学者5人の名前が付けられています。エイクマン(オランダ)、フンク(ポーランド)、ホプキンス(英国)、マッカラム(米国)と並んで、Takaki Promontry(高木岬)というのがあります。このうち2名はノーベル医学生理学賞(1929年)の受賞者ですし、フンクはビタミンVitamineの命名者ですから、このことは、国際的に高木兼寛がビタミン研究の開拓者として、日本のどの栄養学者よりも圧倒的に高い評価を受けているということを象徴的に示していると言えましょう。

 高木兼寛は嘉永2(1829)年、日向国の薩摩藩・下級武士の家に生まれました。早くから医者を志し、藩立の鹿児島医学校で英国人W.ウィリスに学んだのち、明治5(1872)年上京して高輪にあった海軍病院の軍医となり、すぐに脚気患者が驚くほど多く、また死亡率も著しく高いこと気がつきます。当時の海軍軍人1552人のうち、年間延べ6348人の脚気患者が出ていたというのですから、同一人が年4回以上もこの病気にかかっていたということになります(記述疫学)。私自身は典型的な脚気患者を診たことはないのですが、ひと言で症状を説明すると、まず手足の運動麻痺や浮腫が始まり、少し運動すると激しく動悸がして、ひどい場合には脚気衝心をおこし、苦悶して2、3日で死んでゆくという恐ろしいものでした。彼は何とかしてこの病気の原因を突き止め、その治療法を確立したいと切実に思ったのです。海軍軍医学校教官の英国人E.W.アンダーソンの推薦によって、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学(1875年)、ここで今日で言う疫学・公衆衛生学の考え方を学んだことが、彼の脚気研究に疫学的な手法を導入する契機となったのです。

 留学中抜群の成績をおさめて(13の優秀賞・名誉賞を受賞)、5年後の明治13(1880)年に帰国、直ちに海軍病院長に就任すると、早速、海軍における脚気患者の研究を再開します。まず生活環境と脚気の発生状況の関係から調査をすることにして、最初の重要な発見をします。軍人の階級と脚気の発生率に明らかな差が認められたのでした。つまり、士官、下士官、水兵、囚人別にみると、階級が上から下へゆくにつれて、順次発生率が上昇していたのでした。当時の食費は現金支給で各自が食物を買っていたので、金の使える階級に脚気患者が少ないということは、病気の発生と食事にかける費用とが関係しているのだと見抜きます。

 いわゆる栄養原因説の発端になるこの考えに到達したのは、明治15(1882)年2月頃でした。同時に、英国留学中の体験から脚気患者が一人もいなかった英国人と、日本人の食生活の違いにより、脚気は白米のような炭水化物の摂りすぎ、たんぱく質の不足から起こる病気ではないかと直感します。これを実証するために階級別に摂取している食べ物の窒素N(たんぱく質)と炭素C(炭水化物)の量比を分析して、英国人の健康標準食では、N:C比が1:15であるのに対して、海軍の水兵では1:28ときわめて高いことを明らかにします。

 この研究結果から彼の考えた手っ取り早い脚気予防法は、兵食制度を現金支給から現物支給にして、たんぱく質重視の「洋食」に切り替えることでした。しかし当初、このような改良策は黙殺されたままでした。

 偶然にも高木兼寛に幸いする事件が起こります。明治16(1883)年、練習航海に出ていた軍艦「龍驤」が品川沖へ帰国しました。ニュージーランドから南米を廻っての272日間の航海中、乗組員376名のうち、何と169名(しかも160名までが水兵と下士官)の重症脚気患者を出していましたが、そのうち25名が死亡したのです。帰国前に龍驤は、「ビョウシャオホシ カウカイデキヌ カネオクレ」という悲痛な電報を打電していたのです。患者多発で帆を張って航海をすることができず、火夫も倒れたので火力による航海もできなくなり、休養のためホノルルで1ヶ月も停泊して、肉、野菜を補給してようやく全員元気を取り戻すという一幕があったからです。

 高木兼寛の栄養原因説をそのまま正当化するような事件でしたが、彼はこの機を逃さず、直ちに脚気予防調査委員会を組織したうえ、伊藤博文を経由して、脚気について心配されていた明治天皇に謁見して彼の予防策を上奏します。事前に海軍卿あてに提出されていた彼の「食料改良の儀上申」は、天皇謁見のその日のうちに承認されることになったのです。

 翌明治17(1884)年、龍驤と同じコースの練習航海に出た軍艦「筑波」には、彼の提案によって大麦、大豆、牛肉などを多くした(N:C比率が1:15)食物を積載して(もちろん現物支給で)航海した結果、航海日数287日で、全乗組員333名中、最終的な脚気患者の発生数は、延べ16名、実数14名、死亡者ゼロでした。しかも14名中4名の練習生はコンデンスミルクを飲まなかった者であり、10名の水兵のうち8名は肉類を嫌って食べなかったのでした。不安と期待で待っていた高木兼寛のもとに飛び込んできた「ビョウシャイチニンモナシ アンシンアレ」というホノルル到着の筑波からの電文を前に彼はひざまずき、神に感謝したと言います。吉村昭の小説「白い航海」のなかでの感激の名場面です。

 龍驤と比較するとその差は歴然としていて、彼の実験疫学、介入実験は見事に成功を収めたのでした。

 これ以後海軍の兵食改善によって、明治18(1885)年から海軍における脚気患者「なし」は敗戦の昭和20年までの60年間もつづくことになります。彼の生存中の2回の大戦、日清、日露戦争に勝利したのも、海軍では彼の栄養学説に基づく兵食改善の影響が測り知れないほど大きかったからでした。

 彼の研究成績は、明治18年から20年にかけて、成医会発行の雑誌に4編の「英文論文」として発表され(1885〜87年)、欧米でも大きな注目を浴びて「ランセット」や「BMJ」という国際的にも有名な医学雑誌に転載されました。さらに、日露戦争勝利の翌明治39(1906)年に、高木兼寛は母校のセント・トーマス病院医学校で、脚気撲滅の成功についての特別講演を行っています。講演内容は直ちにランセットとBMJに詳しく報道され、彼の発想の独自性、先見性、成果の素晴らしさが西欧の医学者から高く評価されたのでした。

 ビタミンの命名者フンクは、高木兼寛をビタミンB欠乏症、すなわち脚気の研究開発者のトップに掲げていますし、マッカラムも名著「栄養の新知識」の中で、「高木兼寛による脚気の研究」という項目を設けて、彼の業績をビタミンB研究の先駆的業績と位置づけています。

 高木兼寛はビタミンなる栄養素を発見したのではありません。また彼のN:C比説も全てが正しかったわけではありません。たんぱく質の食材のなかにビタミンBが多く含まれていたから、脚気予防に成功したのです。どこか、以前ご紹介したJ.スノーのブロードストリート・ポンプのお話と似通っているとお思いになりませんか。コレラ菌発見以前にも、汚染されたポンプからの給水を止めたことでコレラの伝播防御は可能でしたし、ビタミンのことが分かる前からでも脚気は絶滅することができたのです。疫学を遅れた学問とみなしては困ります、という私の気持ちが少しは通じたでしょうか。

 最後に、慈恵医大はドイツ医学一辺倒だった戦前から英語による医学教育をしていましたし、何よりも英国流のプラグマティズムを実践してベッドサイド・ティーチングを行っていたことで有名です。学祖・高木兼寛から受け継がれた伝統といってもよいでしょう。もう一つだけ「ひとり言」ですが、今日、ロンドンで開業なさっている日本人医師はオール慈恵医大出身者という話にもどこかに高木兼寛の影響を感じるのですがいかがでしょう。

 なお今回のお話の大半は、東京慈恵会医科大学・名誉教授(生化学)であり、日本ビタミン学会賞も受賞(ビタミンBの研究)されたホンチャンのビタミン学者である松田誠先生の著書、「脚気をなくした男 高木兼寛伝」(講談社、1990年)を参考にしました。また2003年度の科学技術映像祭、医学部門最優秀賞/文部大臣賞受賞のTVドキュメント「大いなる航海 軍医高木兼寛の280日」(南日本放送)をご覧になった方もおられましょうが、その原作は吉村昭の「白い航跡・上下」(講談社 1991年刊)だということを付け加えておきます。

                                           (2005年3月16日)

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