ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.36 本田賞受賞の栄養疫学者、ウィレット教授
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 定期購読をしているので、2005年2月号の「文芸春秋」を手にしたのはこの雑誌が店頭に並ぶより2日ほど早目のことでした。そのグラビアページに大きな顔写真が出ていたのは、ハーヴァード大学公衆衛生大学院教授・ウォルター ウィレット(59歳)Walter C.Willettです。このコラムの次のテーマを何にしようかと思案中だったので、早速これはいただきとばかり取りあげることにしました。

 前回は栄養疫学の大先輩キース博士でしたが、今回のウィレット教授は同じく栄養疫学の分野でいま世界をリードしている現役バリバリの研究者です。

 文春のこの号には、第25回「本田賞」を受賞するために昨年11月に来日されたウィレット教授の業績を紹介する記事と、授賞式や飛騨高山を訪問中のスナップなどの写真が掲載されています。正直申して、私はこれを読むまで本田賞という賞を知らなかったのです。自動車会社ホンダを母体にする(財)本田財団が提唱している「エコ・テクノロジー」という理念に合致した、教授の一連の研究に対して贈られたもの(副賞1000万円)でした。

 そもそもエコ・テクノロジーといってもそれほど馴染みのある言葉ではありません。同財団によるとこれを次のように解説しています。「エコロジー(生態学)とテクノロジー(科学技術)とを組み合わせた造語で、人と技術の共存を意味する。従来の効率と利益のみを追求する技術ではなく、『人間活動をとり巻く環境全体との調和をはかった真の技術』が、今後の社会に求められるとして、新たに提唱された概念」。

 ウィレット教授はこの本田賞の25人目の受章者ですが、医学分野では3人目(他の2人はフランスのJ.ドーセ(免疫学の組織適合試験)と、イギリスのB.エイムス(がん・老化に影響する環境要因)でした)ということです。国際的な賞ですが年に1人しか受賞者がいないので非常に狭き門ですし、私が知らなかったのも当然かも知れません。皆さんはご存知だったでしょうか。

 そこで本題に入って、ウィレット教授ですが、1945年の米国ミシガン州生れ、70年にミシガン大学医学部を卒業(医学博士)、73年にハーヴァード大学公衆衛生大学院で修士号(公衆衛生)、80年には同大学院疫学科で博士号(公衆衛生)を取得後、引き続いて同大学院に勤務、助教授、準教授を経て、87年からは疫学・栄養学教授、91年からは栄養学科・学科長に就任、今日に至っています。どうやら臨床医ではない、「白衣を着ない医者」であることに間違いありません。今回の賞の前にもガン予防賞(全米ガン協会)はじめ、近代栄養学国際賞、国民薬学賞優秀賞などいくつもの賞を受賞しておられます。

 ウィレットという名前は初めてでも、栄養学に関心をお持ちの方のなかには、彼が提案し米国厚生省の「食生活指針」でも採用している「ヘルシー・フード・ピラミッド」とか、「フード・ガイド・ピラミッド」の図を覚えている方もおられましょう。絵でお見せすれば一目瞭然ですが、ピラミッドの底辺には、毎食食べている重要な食品、次の段が野菜や果物、そして順次頂上へ向かうにつれて控えめに食べる食品(赤身の肉、バターなど)が並べられているあれです。

 教授の著書「太らない、病気にならない、おいしいダイエット」(前田和久訳) (光文社 2003年刊)のなかで説かれている重要なポイントは次のように要約されます。

@  体重に注意し、運動を充分にする
A  植物性のよい脂肪を充分とり、動物性の悪い脂肪は少なくする
B  精製された穀類をより少なく、未精製の全粒の穀類をより多くとる。
C  タンパク質も健康によいものを選択する。(体重1キロ当たり1.2〜1.5グラム)
D  野菜と果物は充分にとる
E  アルコールは適量にとる。(1日20グラム=ビール中ビン1本、日本酒1合)
F  複合ビタミン剤を念のためにとる。

 まあ何のことはない、ほとんど皆さんの栄養常識になっている事柄ばかりのはずです。しかしこのように常識にまでなった栄養の取り方が、実はウィレット教授の疫学、名付けて「栄養疫学」の研究成果のおかげなのです。

 もともと日本の臨床医のなかには、患者に対して栄養学の大切さを口では強調するものの、実はあまりよく勉強しないで、他人任せの方も多かったようです。つまり学問としては一段低くみる傾向がなかったとは言いきれません。臨床の現場で研究するのは何となく野暮ったいと感じているに違いありません。それはそうです。栄養摂取のことを厳密に調査することはまどろっこしいだけでなく、大変面倒で根気が要る仕事なのです。とくにわれわれ年代になると、昨夜食べた食事の献立さえちゃんと覚えていないのですから、食事調査は簡単ではないはずです。そのうえ、食品ごとのキロカロリーというのも何となく大雑把のように思えるし、食品が体内に入ってからの吸収率などは個人別にかなり違うはずなのに、一律に計算しているのですから。そんなわけで、これまで日本の臨床栄養学、栄養疫学は国際的に遅れているという残念な評価がなされてきました。それに風穴を開けた研究者の一群が、小町喜男・筑波大学名誉教授や、小沢秀樹・大分医科大学名誉教授、田中平三・国立健康・栄養研究所理事長たちでした。彼らににつづいて、ハーヴァード学派とも言うべき津金昌一郎・国立がんセンター予防研究部長、坪野吉孝・東北大学教授(臨床疫学分野)たちが、現在活躍中でこれからが楽しみです。

 ここでは、ハーヴァード大学公衆衛生大学院栄養学科に留学(客員研究員)して、ウィレット教授から直々に薫陶を受けられ、「栄養疫学」(巻頭の「推薦の序」はウィレット教授が筆を執っています)の著者でもある、坪野教授の「食事調査法」の解説をご披露しましょう(「栄養疫学」南江堂 2001年刊)。

 疫学調査で用いられる食事調査には、次の5つの方法があります。

@  食事記録法(食事のつど、摂取した食べ物を重量もいっしょに調査票に記録しておく。負担 は大きいが精度が高く、「ゴールドスタンダード」として取り扱われる)
A  24時間思い出し法
B  陰膳法(摂取した食べ物の一部を取り分けておき、後日回収して化学分析する)
C  生体指標(血液、尿、爪、毛髪、皮下脂肪などの生体試料を採取して、栄養素や物質の含量を測定する)
D  食物摂取頻度調査票 food frequency questionnaire (FFQ)

 この5番目のFFQの開発を主導した張本人がウィレット教授その人で、現在ではFFQを使った食生活の詳細な調査に基づく大規模コーホート研究が、北米、欧州を中心に30以上も進行中だそうですが、これが今回の本田賞の受賞の理由にあげられたのです。

 やや専門的なお話なので詳細は割愛せざるを得ませんが、FFQはどんなものかというと、通常数十項目から百数十項目にわたる食べ物をリストにして提示し、それぞれの摂取頻度と一回当たりの目安量を記入してもらう調査票の作成から始まります。従来の思い出し法の限界を克服して自己記入できる利点があり、対象者が協力しやすくなる工夫がされています。この回答を基にして、食品成分表を用いて栄養素摂取量を「コンピュータ計算」します。「食物リスト」の作成に当たっては、対象集団の食生活を十分に反映するような食品を選択する(米国と日本ではまったく違ったリストになることは言うまでもありません)ことが重要なことはもちろん、事前に行った食事調査の資料を使って、集団の栄養素摂取に対する寄与度の高い食品(たとえばカロテンの場合のにんじんのように)などを選択する必要があって、このリストが質問票作成の鍵になっています。といっても記憶に依存する部分は残っていますし、食品成分表に依存しなければならないので、調査票の精度を高めるためには、別途妥当性の研究も不可欠です。こうした手順をふんでこそ半定量的な栄養素摂取の評価が可能になったのですが、ウィレット教授の研究の真骨頂なのです。

 ウィレット教授らのハーヴァード大学グループは、1976年に開始された「ナース・ヘルス研究」では、米国11州のナース(女性)12万人(30〜55歳)を対象にして、自己記入式のFFQを郵送により配布して回収していますが、これを皮切りに2年ごとに情報を更新しつづけ、84年には116項目にも及ぶ拡大版調査票を使用して9万人の追跡研究を続行しています。ついで89年からは、米国14州のナース(女性)12万人(25〜42歳)を対象にした「ナース・ヘルス研究U」がスタートしています。この調査では一部対象者から血液と尿のサンプルも採取されています。さらに男性を対象にした「ヘルス プロフェショナル 追跡研究」では、米国の医師以外の男性保健専門職(歯科医師、獣医師、薬剤師など)約5万人を対象にして、同じくFFQを使った研究が86年に開始されています。以上、現在も継続中の大規模な3つのコホート研究の中心にいて指導されているのがウィレット教授です。

 研究の実施に当たっては、綿密な計画の企画力、長期にわたる忍耐強い持久力や、そのうえ何十億円という膨大な財政的な基盤(政府援助も含む)がなくては到底できないことです。しかも研究を開始してすぐに成果を期待できるものではないので、初期投資をしておいて、ある程度期間が経過してから投資額を回収するという企業における投資活動に似ていないこともありません。

 こうした努力の積み重ねの結果、現在のアメリカ人の常識にまでなった栄養摂取の考え方が築かれてゆき、がん、循環器疾患などの慢性疾患と食事の関係がつぎつぎと明らかにされるのですが、その中身については次回のお楽しみということにして、例によって「ひとり言」子のコメントを最後にひと言。

 それは、われわれ世代にとっては、人種差別大国だった米国も変わりつつあると言う事を実感させる文春掲載写真でした。ウィレット教授のご同伴のゲイル夫人が、紛れもない有色アフロアメリカンだということにすぐ気がついたからです。写真に添えられたキャプションには、夫人は公立図書館のプログラム・コーディネーターで、結婚32年の仲の良いご夫婦だと書かれていました。いろいろな弱点も持っていて批難に曝されながらも、唯一の超大国になったアメリカという国の懐の深さの一面を私に垣間見させてくれたのでした。

                                           (2005年1月15日)

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