ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.30 EBM(証拠に基づく医療)をご存じですか
(その1)
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 箕輪真澄先生(前・国立公衆衛生院疫学部長)は、国際疫学学会後援図書である「疫学辞典第3版」の監訳者であり、かくいう「ひとり言」子もそのお仕事をちょっとだけお手伝いした仲です。もちろん本ちゃんの疫学者であると同時に、熱心なバードウオッチャーでもあります。彼は趣味が嵩じて(としか言いようがないのですが)、F.B.ギル 「鳥類学」や、O.L.オースチン 「世界の鳥」の図版入りの数百ページに及ぶ大著を翻訳、印刷(非売品)して、専門家や友人に配布されていますし、彼の年賀状には、必ず前年に初見したトリの絵が手書きでプリントされているほどですから、その熱心さはハンパではありません。

 先生の随筆に次のようなものがあります(文芸春秋臨時増刊号「長寿と健康 いのち大切に『元気に生きるヒント』 2001年12月)。

 「私はバードウオッチングを始めて趣味が一つ増え、多くの鳥仲間を持つようになった。これを今はやりの表現をすれば、私の場合、高いQOL(生活の質)を維持するのにバードウオッチングが一役買っていることになる。これは恐らく多くのバードウオッチャーにも当てはまることであろう。しかし一般にも当てはまるかどうかはわからない。鳥は焼き鳥屋で食べれば十分という人に、バードウオッチングを勧めても無駄であろう。

 現今、医学ではEBM(証拠に基づく医療)という考え方が広まりつつあるが、これをバードウオッチングの精神的健康や社会的健康に対する効果を解明するのに応用することもできる。簡単に言えば、バードウオッチングをやったことのない人100人を募り、本人の希望とは関係なく50人ずつ二群に分けて、一群にはバードウオッチングを勧め指導し、もう一群(対照群)と精神的健康度などの変化を比較するのである。やってみたい研究ではあるが、研究費は取れるであろうか。参加希望者はいるだろうか」

 彼はご自分の趣味と関連づけてEBMのことを解説しているのですが、同時にEBMの難しさも短い文章の中で語っておられるのです。

 もし皆さんが長年お付き合いしているかかりつけ医をお持ちで、新しい薬を処方されたときに、自分の主治医はEBMのことを十分承知のうえで処方しているので安心だと思っておられたとしたら、大変進んだ患者です。また、医師・患者関係もきわめて良好で幸せな患者と申し上げてよいと思います。逆に、患者が知ったかぶりでEBMなどと口にすると、途端に不機嫌になるような医者の方がまだまだ多数派かも知れません。

 実はEBMはいまや世界的な潮流になっていて、医学・医療界ではある種の流行になっている感じさえします。少なくとも診療室に入ってすぐに、パソコンを身近に置いて盛んに使っている先生だと気づかれたら、その方がEBMを知らないということはまずあり得ません。医学論文の検索が瞬時に行えるようになり、内外の医学文献の中身が、昔のように医学図書館に足を運ばずとも簡単に読める、いわゆる情報化時代になったからこそ、EBMの考え方は短期間のうちに普及し始めたのです。インターネットや情報ネットワークの発展なしにはEBMの実践もなかったと言えます。

 発端は1991年にそれほど有名でもないカナダの一地方大学の医師が発表した論文からなのですが、その歴史や実際についてはおいおいご説明することにいたします。

 しかし、ハイカラに(こんな言葉を使うようでは年齢がばれてしまいますが)EBMなどと言わずとも、全く同じ考え方に立って、長年にわたり薬害公害と真剣に取り組んでこられた日本人医師のことを、まずご紹介することから始めましょう。

 東京大学物療内科・元講師の高橋晄正先生(1918年〜)がその人です。もともと増山元三郎とともに推測統計学がご専門の研究者なのですが、1961年に信州大学で行われた「グロンサン研究会」へ出席されたことが、彼の運命を決定づけることになったと、後年述懐されています。

 1951年から発売されていたグロンサンは、その合成法が薬学界の権威、東大・石館守三教授の開発によるもので、「世界に誇るべき大研究」として大々的にPRされ、「強肝保健薬」と銘打った中外製薬の主力商品だったのです。テレビコマーシャルとともにこの薬の名前を思い出される方も多いことと思います。好調な売れ行きが頭打ちとなってきた発売10年後の当時、製薬会社の戦略として、肝臓研究を専門にしている15の臨床教室に呼びかけ、肝臓病に対するグロンサンの臨床的有効性を保証するデータを作成しようという意図のもとに開かれた特異な「研究会」でした。

 すでに世界の薬効検定の趨勢は、1948年に「二重盲検法(ダブル・ブラインド・テスト)」(二重目隠しのもとでの対照試験)の導入によって、有名な抗結核剤ストレプトマイシンの有効性が証明されて以来、客観的、科学的な方法が飛躍的に発展していたのですが、残念なことに当時のわが国の医学界は世界のレベルからはかなり立ち遅れていたのです。

 しかも皮肉なことに、発売前の1950年には、アイソトープ実験(アイゼンベルグ)によって外部から与えられた合成グルクロン酸(グロンサンはこれの商品名)には、体内で毒物と抱合する力、つまり解毒作用がなく、炭酸ガスと水に分解するだけということも明らかにされていたにもかかわらず、臨床医はそれを知らなかったというお粗末さだったのです(一説には、石館教授は知っていたのに沈黙を守り、製薬会社は隠していたとも言います)。

 高橋先生は、当時の医学界に蔓延していた「使った、治った、効いた」という、いわゆる「三た論法」の結果を権威者が保証するやり方を黙認することができず、敢然と批判して、推計学の立場からグロンサン研究に二重盲検法を採用するように提案(今なら当たり前の提案なのですが)をされます。当然のことながら権威者とそれに阿る研究者一派や製薬会社からは猛烈な反発を食うことになります。

 この時点から彼は、前科学性に胡坐をかいてきた当時の医学界・薬学界の権威者を敵にして、真っ向から対立して行くことになります。彼の見解を掲載した朝日新聞と広告主の中外製薬との間にジャーナリスチックな確執があったこともちろん、のちに消費者の立場に立って作成された彼の公開質問状は国会でもとり上げられます。1967年には、厚生省も以前に許可した薬の洗い直しを約束して、「薬効問題懇談会」を発足させることになります。事実上、グロンサンは薬理作用の機転がわからない迷い子的薬剤になってしまったのです。

 グロンサンだけではありません。1965年末からは武田薬品のアリナミンに対しても、彼は世界中のアリナミン研究の文献調査を、基礎医学にわたるまで徹底的に行いました。その結果、ビタミン B1の人体における吸収は、小腸上部の壁でピロリン酸結合することによって行われ、すでにニンニク成分と結合した形になっているアリナミンは、胃腸壁のどこからでも無制限に体内に浸透する非生理的なものであること、ニンニクの成分に含まれるSH基が胎児障害を起こす可能性のあること、主成分であるニンニク揮発油には強い溶血性があることなどを明らかにし、アリナミンに対しても「虚構の保健薬」だと、批判の舌鋒鋭く武田薬品に迫ったのです。

 結論として、アリナミンは再評価の結果、発売当初80種類もあった適応症に科学的な根拠が認められず、ビタミン B1欠乏の疑われる神経痛、筋肉痛、関節痛だけに1ヶ月に限って使用が認めらることになりました。

 この他にも、派手な宣伝によって一時は売り上げを伸ばしたキャべジン、正露丸(クレオソート製剤)など、何時の間にか消えかけている薬も、彼の「薬のひろば」という運動の成果であります。

 高橋晄正先生は、一時は医学界から孤立させられ、「東大の万年講師」に甘んじざるを得なくなり、ついに医学者というよりは、薬害問題を監視する市民運動家として有名になられます。薬はもともと毒であるという考えに基づいて、国民が薬漬けによる「薬へどろ」状態に追い込まれないように監視し、啓蒙しつづけられた先生の根本思想は、今もなお「どっこい」生きています。

 彼が40年以上も前から実践された「権威の医学ではなく、科学的な根拠に基づく医学」、これこそが今流にいうEBMなのです(「薬のチェックは命のチェック」16号 2004年10月)。

                                           (2004年11月3日)

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