ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.26 「健康」という言葉の起源は新しいのです
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写真は吉田基義さんの作品
 健康というとすぐに医学・医療の世界のことを思い浮かべるほど、短絡した考え方が横行しています。取りも直さず、健康を病気の裏返しとして捉える見方が根強いからにほかなりません。しかし、健康は、どうやら医学(自然科学の一分野とみるのが普通です)だけで得られるものではなさそうです。

 ライフスタイルとか生活習慣が健康に深く関っていることは先刻ご承知です。日常の生活態度はいうに及ばず、レジャーからエンターテイメント、人生の生き方から死に方までの人生観、ものごとの価値観、さらに哲学もあるでしょうが、日本語だけでは表現しきれない諸々の「文化」にまで拡げた幅広い視点や見方なくしては健康は論じられないのです。

 このような時代背景から健康を自然科学だけでなく、文化という側面からも捉えることによって真の健康づくりに貢献できるという考え方に立って、「健康文化」という新たな学際的研究を広めようとしたのが、明治生命厚生事業団(現・明治安田厚生事業団)でした。上木秀夫常務理事(当時の)の企画・立案により、1993(平成5)年に健康文化に関する懸賞論文の募集をしたことを皮切りにして、1999(平成11)年までの7年間にわたって、「健康文化の研究助成」(この制度が中断していることは残念ですが)を行ったのでした。「ひとり言」子も、発足当初に理事長を務めていたご縁もあって、ささやかなお世話をさせてもらい、大勢の「文科系」「体育系」若手研究者の応募があったことを懐かしく思い出しています。

 今回は、この研究助成を受けられた若手研究者のお一人で、現在もますますご活躍中の北澤一利・国際日本文化研究センター研究員の研究成果の一端をご紹介することにいたしましょう。

 ちまたに溢れ日常語になっている「健康」という言葉は、実はそれほど古い日本語ではなかったのです。北澤も、誰も健康という語の起源がこんなに最近であることに注目していないだろうから、ひょっとしたら何か大きな発見になるのではないかと思ったと率直に述べています。

 江戸時代を通じてのベストセラー、貝原益軒の「養生訓」(1713年)を知らない人はいないと思いますし、今もこの本からの頻繁な引用も目につきます。その現代語訳には健康の文字が度々出てくるのですが、原著全8巻のなかに、健康という言葉は一度も出てこないのだそうです。もともと「養生訓」は、病気を遠ざけるための実践法を益軒の83歳までの体験を基に書かれた本ですから、もしも、当時、健康が一般になじみのある言葉であったならば、当然益軒が使っていても不思議ではないはずです。江戸時代には、「丈夫」や「健やか」などはありましたが、健康という言葉は使われていなかったのです。

 北澤はこのように断言した後、健康という言葉が一般的に使われるようになったのは、明治維新以降であるとしていますが、それでは「健康創始者」は誰かというと、江戸末期の二人の蘭学者、高野長英と緒方洪庵だと結論づけています(「『健康』の日本史」、平凡社新書、2000年12月刊)。

 高野長英(1804−1850)は陸奥国水沢の出身、当時を代表する蘭学者・医者でした。長崎にいたシーボルトから学んだ西洋医学や自然科学、兵学などの書物を翻訳した語学の天才でもありましたが、時代を早く生き過ぎた悲劇の人物(蛮社の獄に連座、脱獄して各地を転々とした後、幕吏に襲われて自殺)でもあります。漢方と西洋医学の簡単な比較と、西洋医学の基本である生理学について解説した長英の著書「漢洋内景説」(1836年)のなかで、「(身体の内部構造を観察することによって)一にはよくその平常の健康を保ち、長く活発に生育するための理を」悟る必要があると述べて、「健康」という言葉を使っています。

 もう一人の緒方洪庵(1810−1863)は備中国足守の出身、同じく蘭学者・医学者・教育者です。長崎遊学の後、大阪に適々斎塾(通称適塾)という私塾を開き(1838年)、明治維新以後に近代日本の建設に活躍した多くの人材(福沢諭吉、長与専斎、大村益次郎など)を育てましたが、のちに幕府に召抱えられ奥医師、西洋医学所頭取にまで登りつめます。洪庵は「遠西原病約論」(未公刊、1837年)のなかで、「身体の内外諸器の正常の形をまっとうし、諸力が正常の度合いを守っていて、運営が正常の調子を失っていないものを健康」というと書いています。さらに、彼の理論を集大成した「病学通論」(1849年)を公刊しますが、これが洪庵の「健康」という語の使われている最初の公になった著書ということになります。

 実は、二人の著名な蘭学者が健康という語を使うようになる前にも、すでに「強壮」、「壮健」、「康健」など類似の言葉が使われていて、最終的にどれに落ち着いてもおかしくない状態だったといいます。北澤は、長英が健康という語を使ったのは偶然的な要素が多く、考えあぐねた末にこの語を採用しているのではないとか、この語の創始者を自負する気配も姿勢もないとしています。一方洪庵の方はきわめて積極的で、彼の著作を研究すると、彼自身がこの語を創作していくプロセスが残されていて、健康を優先的に残そうとする意図が読み取れるといいます。

 したがって、健康という語の創始者としての本当の功績を認めてよいのは、洪庵の方だというのが北澤の結論です。別の近現代史学者、鹿野政直も「ケソンドヘイド」に「健康」の訳語をあてたのは、洪庵の「病学通論」をもって嚆矢とするとして、北澤説を支持しています(「健康観にみる近代」、朝日選書、2001年4月刊)。

 こうして誕生した「健康」ですが、当時の庶民の使った「丈夫」や「健やか」とは違ったようで、解剖学や生理学など医学的な根拠に基づいた専門用語だったのです。広く一般に使われるようになるには、洪庵の「病学通論」からさらに30年の歳月を要することになります。明治時代の偉大な啓蒙思想家、福沢諭吉(1834−1901)が使い始めるまで待たねばなりませんでした。

 因みに、今年は福沢の生誕170周年に当たり、新たな研究熱が起こっているようですが、北澤の「健康」についての福沢研究も徹底したものです。

 福沢は緒方洪庵の適塾でオランダ語を学び塾頭まで務めていますから、当然健康という語に早くから接触した人物であったはずです。また、彼がオランダ語の勉強から英語に切り替えたことも有名です。彼が残した数多い著作のうち、一番最初に出版された記念すべき著書「増訂華英通語」は、英語の勉強を始めてから1年後に書かれたものです。これは、咸臨丸でアメリカから持ち帰った中国語−英語辞典のオリジナル「華英通語」に日本語を付け加えた体裁の本で、一つの英単語に中国語の発音と日本語の発音、さらに中国語の意味と日本語の意味の合計4つが1コマに書かれています。

 問題のhealthという英語には、精神(これは中国語訳の誤りですなのですが)とだけ書かれていて、福沢による日本語訳は空欄のままです。その理由を北澤は、当時、福沢が健康という語や意味を知らなかったのではなくて、ケンコウという言葉が日本人の間で身近な言葉ではなかったからだと解釈しています。

 福沢が初めて「健康」を使ったのは、「西洋事情初編」(1866年)の「学校」という項目で、ここでは「健康」は、たんに勉強でたまった鬱憤を晴らすだけの、いわば気晴らしとして使われているのです。公平と正確さをもって先進国で実際に見聞してきたことを、誇張なく説教じみたところも少なく、紹介者に徹しようとした彼は、このように健康を穏やかな意味に解釈していたのでした。

 1874(明治7)年に出版された「学問のすすめ」第4編では、「すべて物を維持するには力の平均がなくてはならない。(人体を)健康に保つためには、飲食を欠いてはならないし、大気や光がなくてもならない。寒さや暑さ、いたみやかゆみといった外部からの刺激に対して、内側からこれに応じて一身の働きを調和しなければならない」と言っています。ここまでの福沢の著作を通じてみられる「健康」は、身体内部の生理学的な機能が正常に働いていて、今風にいうならバランスや調和が重視されているだけでした。

 しかし、1878(明治11)年に書かれた「通俗民権論」では、もっぱら「荒々しき運動」が奨励されるようになり、運動によって身体がどれだけ鍛えられるかとか、外部の困難に耐えて長生きする人を名付けて、身体の「健康な人」というように変化してゆきます。調和やバランスだけを重視する健康に物足りなさを感じて、厳しさと強さを求めるようになったのです。

 さらに、この3年後の「時事小言」では、一瞬目を疑うほど大きな考え方の変化が起こります。それまでの身体を鍛えて「社会の困難を克服する強さ」を身につける、個人の尊い理想的な健康の姿から、さらに「体力」が重視されるに至ります。

 福沢自身は、あくまで個人が何の干渉も受けないまま、自ら一身独立し健康になることを理想にしていたのですが、不安定な社会情勢と政治的な必要性から、彼の心変わりを促して、自発的な健康を諦めて国家による計画的な「体格体力」の向上を主張するように転身したことになります。健康という言葉を常用語にするのに大きな功績を挙げた啓蒙思想家としての福沢は、一方でわが国の近代化の過程で避けて通れなかった富国強兵という軍事政策や教育政策に利用されてしまうという不幸も担うことになります。

 いかがですか、「健康」という言葉の起源から、福沢諭吉の健康観の変遷までを垣間見てきましたが、少しは健康文化という考え方や切り口がご理解いただけたのではないでしょうか。

                                           (2004年9月1日)

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