ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.139
放射線療法を見直そう(2)
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 良い仕事をしていると自負していても、会社や世間がちゃんと評価してくれないもどかしさを、誰しも一度や二度は感じたことがおありでしょう。話は飛びますが、放射線療法も「実力」がありながらマイナス・イメージで損をしているようです。そこでテーマが「見直そう」なのです。その実力を知るのに格好の話題が、ちょうど今発売中の文芸春秋5月号に掲載されています。有名な映画俳優、菅原文太が「膀胱がん」を見事に克服した体験記です。

  
  菅原文太の仁義ある治療法選択

 さすがに有名人だけあって、懇意にしておられた鎌田実先生の紹介で、放射線医・中川東大病院診療部長を経由して、泌尿器外科医・赤座英之筑波大学付属病院副院長という名医にたどり着いて、救ってもらわれるのです。膀胱がんですから、最初の自覚症状は血尿でした。まず近くの泌尿器科ですぐに診断がついて癌研へ紹介され、内視鏡手術によって削り取ることができて手術は成功でした。しかし、表層はきれいになっても筋層にまで浸潤しているがん細胞には内視鏡手術では技術的に無理でした。

 このまま放置すると、局所の再発や遠隔部位への転移は免れません。主治医から膀胱の「全摘出手術」しかない(これが標準治療です)と言われます。全摘のあとは「人口膀胱」です。冷凍保存用のジッパー袋のようなものを手術で開けた穴に糊でペタッと貼ってぶら下げるのを実際に目撃して彼もショックを受けます。こんなに粗末なものとは思わなかったし、もう少し美的センスの高いものにならないかとも感じますが、やはり役者魂の持主だからでしょうか。きっと、こんなものをぶら下げて俳優稼業はできないと、一瞬のうちに全摘はしないという結論を出したのでしょう。

 菅原文太の選択した治療法は、全摘という外科手術ではなく「温存療法」でした(筑波大学で2007年4月から3カ月入院)。治療の特徴は、抗がん剤と放射線療法の相乗効果を狙った、いわゆる「集学的治療」です。
 まず2種類の抗がん剤(シスプラチンとメソトレキセート)を、足の付け根の動脈から(全身への点滴ではないので副作用は小さい)効率よく膀胱がんへ届くように入れます。
 次が放射線療法です。一般に普及しているエックス線を、週に5日、23日間にわたって41.4グレイ(エネルギー総量を表す単位)照射されます。放射線療法の装置については、稿を改めてお話する予定です。この間動脈注射の抗がん剤療法を2度受けます。
 ここまでの治療効果を確認するために、内視鏡検査をすることになったのですが、何と患者の菅原文太は検査に抵抗します。もし温存療法が効かないから手術すると言われても断るつもりだったからです。彼の人生観なのか仁義なのでしょうか。最終的に検査すると、がんはきれいに消えていたのです。

 駄目押しの最終段階は、同じ放射線療法でも今度は「陽子線治療」です。エックス線とは異なり、質量のある陽子線は定めた目標に止まって他への悪影響がなく、ピンポイントにがん細胞だけ狙い撃ちができます。残念ながら、この装置は全国に10か所くらいしかなく、保険の適用がない先進医療として行われるので、費用も250万円かかってしまいます。菅原の場合、副作用もなくて33グレイの陽子線照射で治療を終了します。
 機能や美容を残す、QOL重視の医療が温存療法ですし、放射線療法が主役なのです。菅原文太の選択は正しかったし、放射線療法の実力を見せつけた一例です。一日も早い彼の本格的な映画復帰が待ち望まれます。

 「放射線療法の実力を見直そう」というからには、ここまでに至る実力もみておかなくてはなりません。放射線治療の歴史は、レントゲンのエックス線の発見(1895年)につづいて、キュリー夫妻によるラジウムの発見(1901年)から始まったのです。彼らはともに第1回、第3回のノーベル物理学賞を受賞していますが、こと医療に限っても大きな貢献をしています。注目すべきなのは、放射線の原理が完全にわかる前から医療効果を期待して使用されたという事実です。しかも不幸なことに、1934年に白血病で亡くなったキュリー夫人は、長年放射線に曝露されたことが原因だと考えられているのです。

 20世紀初頭、がん治療の最前線で華々しく活躍をしたのがラジウム治療です。がんを至近距離から直接照射できたので表在性のがんはもとより、子宮がんへの腔内照射によって治療は好成績をあげたのです。何しろ外科手術に不可欠の消毒法やエーテル麻酔が確立したのは19世紀末のことでしたし、抗生物質の誕生はずっと後のことですから、手術そのものがまだ命がけの時代には、放射線治療はがん治療の花形だったのです。

  第4代がんセンター総長は放射線医

 私の小さい書庫のなかに、「ガンと戦った昭和史 ― 塚本憲甫と医師たち」(文芸春秋、昭和61年4月刊)という本があります。著者は毎日新聞社・記者を経てノンフィクション作家、のちに東洋英和女学院学長を務めた塚本哲也です。夫人の父ががんセンター総長だったというご縁から、義父・塚本憲甫(1904〜1974)の評伝を書いたのです(講談社ノンフィクション賞を受賞)。上下2巻で900ページを超える大作ですが、昭和初期から40年間にわたるがん制圧の苦闘の歴史は読みごたえがあります。まさにがんの放射線治療の発展に一生をささげ、多くの放射線医を育てるとともに、今日の頭頸部がんの標準治療の基礎を築いた名医でした。

 もともと、昭和6年、東大・稲田内科に入局した塚本憲甫は、恩師とともに、昭和9(1934)年、わが国初のがん専門病院、癌研究会付属病院(通称大塚の癌研)へ転じます。折しもがんのラジウム療法で欧米に大きな後れをとっていたわが国でしたが、降って湧いたような幸運が起こります。新設の癌研に三井報恩会から5グラムのラジウムの寄贈があったのです。ベルギー領コンゴからの購入資金100万円は、癌研建築費25万円の4倍にもあたる巨額でした。これによって癌研は一躍、米、仏につぐラジウム保有第3位のがん病院になったのです。財界のがん治療にかける期待の大きさが分かろうというものです。稲田病院長はただちに、がん制圧の将来に大きな役割を果たす放射線医学の開拓を塚本憲甫に託したのです。こうして内科医から新たな放射線医が誕生しました。ご本人も晩年、最初から選んだ道というより偶然の成り行きのようなものだから不思議だ、と述懐しています。

 しかし、やがて日本は戦争に突入することになり、このラジウムが真価を発揮するのは戦後になってからです。昭和32年の日本医学放射線学会総会(新潟)で、塚本は癌研復興後、約10年間のがん放射線療法の経験をまとめた宿題報告を発表しました。詳細は割愛しますが、頭頸部、婦人科、皮膚科領域のがんがいかに治るかを、具体例と統計によって示し、反論しようもない説得力ある報告でした。日本の放射線治療が当時の先進国と同じ水準にまで達していることを明らかにした、がん制圧の歴史のなかでも特記すべき金字塔だったのです。一例をあげるなら、舌がんと聞けば即ラジウム治療と答えるほどの実績を誇るまでに発展させたのです。

 それだけの実績があったからこそ、その12年後、昭和44(1969)年秋には、がんセンター病院長だった塚本は、東京で第12回国際放射線医学会議を主催し、日本の放射線医学の進歩の現況を世界に問うことができたのでした。一見、順調な発展を遂げるかにみえたがんの放射線治療も、このあたりからようやく曲がり角を迎えることになります。(つづく)

                        (2009年4月22日)

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