ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.137
日本人の脳卒中を考える
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 NHKテレビの大河ドラマは好きな番組です。去年の「篤姫」も毎週楽しみ、桜島を含む薩摩の風土を実体験したくてパックツアーにも出かけました。今年は越後が舞台の「天地人」です。画面から伝わる自然の厳しさや美しさはカメラワークが良いせいか抜群です。ちょうど今週は、戦国の英雄上杉謙信(1530〜78)が、遺言を残さずと突然亡くなったことによって始まった跡目争いの最中です。謙信の臨終場面もありましたが、演じる俳優も難しかっただろうと同情しながら見ていました。昨年末に上梓された医者兼作家の篠田達明の「戦国武将の死生観」(新潮選書 2008年12月刊)を読んで、謙信の死因や死に至る経過を知っていたからです。

 篠田先生によると、京都大学の脳神経外科医だった新島掌一博士の医学的考察も参照していますが、謙信の死は次のように要約出来ます。
 もともと謙信は無類の大酒飲みでした。越後の酒は極上の味なので余分な肴は不要で、梅干しや味噌をつまみに酒を飲み、「馬上杯」の遺品があるほど馬上でも杯を手放さなかったそうです。ドラマの主人公直江兼続は、もとより周囲を心服させるに足る英雄でしたが、短慮で激しやすく、プライドが高いので意見をされるとすぐカッとなったり、ムキになって反論する性格の持ち主でもあったと言います。アルコールの大量摂取(16世紀の日本酒は濁り酒でせいぜいビール並みのアルコール度でしたが)と塩分過剰、さらに激昂しやすい性格に、打ち続く合戦のストレスが重なって、おそらく高血圧を発症していたと推測されます。はたして謙信はすでに40歳当時(1570年)、脳卒中に見舞われ、軽症だったのでいったんは回復したのですが、後遺症の左片麻痺のため左足を軽くひきずって歩いていたのです。

 1578年の春、謙信は関東出陣の準備に忙しく、連日のように軍議、酒宴が重なっていた最中、用足しに行った厠で白目をむいて倒れていたのを家臣に発見されます。脳卒中が再発したのです。再発性脳卒中は予後不良で重篤なのが常識ですが、彼も倒れて以来人事不省がつづき、発病3日目には意識がやや好転して唇を動かしたものの、言葉にはならず、失語症を発症していたと考えられます。しかし再び昏睡状態に陥って息を引き取ります。脳出血に併発した脳浮腫や脳ヘルニアによって死に至ったものと考えられています。結論は「高血圧性再発性脳出血」が死因だったということになります。あくまで「上杉年譜」など歴史資料から医学的に推論したものですが、当時の日本人の典型的な卒中死でした。卒中とか中風の「中」とは、当たるとか的中と同じ意味で今日風に表現すると「急激な発作」を起こすことです。

  時は移って、謙信の時代から400年も経た第二次世界大戦後も、我が国は国際的にみても有数の脳卒中多発国でした。1951年に脳卒中が結核に代わって死因の首位になってから、1981年にがんにとって代わられるまで30年間も第一位死因であり続けたのです。しかも脳卒中を大別すると脳出血、脳梗塞、くも膜下出血に分類されますが、当初はそのうちの脳出血が断トツに多発していました。

「わらじ疫学」をモットーに逸早く研究者自身が地域のなかに入り込み、住民をともに生活するなかで疫学研究を推進してきた小町喜男・筑波大学名誉教授たちは、日本人の脳出血は、高食塩摂取、動物性脂肪摂取不足、重労働などの伝統的なライフスタイルに基づく高血圧や低コレステロール血症に原因があるという成績を発表されたのでした(1966年)。
しかし当時は、血中の脂質が動脈壁に沈着して生じる粥状硬化の部分が破綻して脳出血が起こるという、欧米の学説を根強く信奉する我が国の研究者が主流派でした。当然のことながら小町チームに対する疑問や反論が多かったのは言うまでもありません。

小町チームの研究結果の正しさを立証するためには、どうしても @ 疫学調査における脳卒中診断の正確性の確認と A 脳卒中の発生基盤となる血管病変およびそのメカニズムを明らかにする必要があったのです。
  ここで登場するのが病理学の手法を疫学の分野に導入するという画期的な研究方法でした。1968年から小町チームに入った小西正光先生(愛媛大学・名誉教授(公衆衛生学)で現在は大阪府立健康科学センター長を務めています)がこの研究を全面的に担当されたのです。小西先生は、まず大阪大学医学部第2病理学教室・研究生となって、病理解剖の実際をみっちり勉強されてから、当時秋田県内でもとくに脳卒中の発生率、死亡率が高かった本庄市石沢地区に入って循環器疾患の発症調査を行うと同時に、この地区を管内にもつ厚生連・由利組合総合病院で剖検例の検索を始めたのです。以後、病院スタッフとともに20数年にわたり、延べ二千数百例にも及ぶ脳卒中の剖検を実施されたので、そのご苦労は並大抵のことではありません。患者の死後、たとえ崇高な医学研究のためとはいえ、遺族側から剖検の承諾を得ることは容易なことではなく、生前、患者の主治医となって昼夜の別なく献身的に治療に専念し、親身な医者・患者関係を築いていたからこそ理解が得られて剖検が可能となるのです。

 小西先生の研究の詳細は専門的過ぎるので割愛しますが、剖検を始めて間もないある晩、典型的大発作の脳出血例の脳を取り出して、脳底部動脈がまったく正常例と変わらない、つまり比較的太い動脈に粥状動脈硬化を伴っていないのを見たことは忘れられないと、「退任記念誌」の特別寄稿「日本人の循環器疾患の原点とその後の変遷」のなかで感動的に回想しておられます。その後、脳出血剖検例を増やして、脳底部動脈から脳内小動脈にいたるまでのすべての脳動脈の病理標本を作製し、顕微鏡下で詳しく検索するという根気強い作業の蓄積によって、@ 粥状動脈硬化の認められない脳出血の存在と、一方で、A 高脂血症を伴わない粥状動脈硬化が存在することを明らかにされます。さらなる研究の結果、これら2つの新知見がわが国の循環器疾患の特徴であるという結論に到達するのです。

 小西先生たちは、脳出血の発生機序として、低コレステロール血症が細小動脈血管壁の透過性を高めて血漿成分の内膜への侵入を容易にする一方で、急激な血圧の上昇が細小動脈の中膜障害・萎縮をもたらし、これらが相まって「血管壊死」を引き起こして脳出血が発症すると考えています。このような脳出血と低コレステロール血症との関連についての小町チームの学説は、今日では広く世界的にも認められているところです。

 また現在では、脳梗塞を主幹動脈や大脳皮質と皮質下の白質に広がる皮質枝が粥状硬化によって詰まる「アテローム血栓性脳梗塞」と、主幹動脈から数多く枝分かれして脳深部に血液を運ぶ細い穿通枝が詰まる「穿通枝梗塞」(小さな穴を意味する「ラクナ梗塞」とも呼ばれます。)とに分類されます。日本人に多い穿通枝梗塞は、小動脈が破裂を免れた場合、つまり出血しないとそこに血栓形成から血管結節に進展して梗塞が発症するので、脳出血も穿通枝梗塞もその発生基盤となる血管病変は共通していることも明らかにされ、小西先生はこのことが日本人の脳卒中の原点だと喝破されています。

 謙信の死因が脳出血だったことから思いついて、我が国の脳卒中疫学が病理学的手法を取り込んで進歩してきたことを跡付けてみました。脳出血は明らかに減少をつづけ、脳梗塞も一時増加ののちに緩やかな減少傾向に転じています。また細小血管病変が次第に軽くなる方向に向かっているるなど、今なお日本人の脳卒中は時代とともに、量的、質的に変貌しています。しかもその変化はワン・パターンではなく、地域によって異なっているようです。小西先生は、地域ごとにキメの細かい正確な実態把握とそれに応じた対策が必要なことを提言しておられます。傾聴に値する卓見ではないでしょうか。

                      (2009年3月25日))

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