ドクター塚本 白衣を着ない医者のひとり言 | ||||||
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平均寿命イコール年齢別死亡率だということは何回もお話してきました。したがって、わが国ではがんがトップ死因ですから、長野県のがん死亡率も全国最低レベルにあるだろうとは容易に推測できます。 最近中央公論が3月号で「がんで死ぬ県、治る県」という特集を組みました。もともと関心があったので、書店に雑誌が並ぶとすぐに買ってきました。その中で医療ジャーナリストの福島安紀氏が、「最悪は青森、最優秀は長野、実は危ない東京、大阪、埼玉」という論文を寄稿しています。都道府県別の数字の羅列が多いのですが、長野県に焦点を当てて要約しますと次のとおりです。 まず、国立がんセンター・がん対策情報センターが、今年の1月に発表した都道府県別「75歳未満がん年齢調整死亡率(人口10万人対)」の最新版(2007年)を示しています。働き盛りの人びとのがん対策を打ち出すために75歳以上の高齢者は除外していることと、男女合算の数字だという点に注目してご覧ください。 全国平均と47都道府県のがん年齢調整死亡率を低い県から高い県まで順に並べた表と、@ ベスト5、A 平均より良い、B 平均以下、C ワースト5の4分類に色分けした都道府県マップを掲げています。 ここではベスト7と、ワースト5だけを表示します。 1位 長野県 72.7 43位 鳥取県 96.2 2 大分県 78.5 44 大阪府 97.3 3 岡山県 78.6 45 和歌山県 97.4 4 熊本県 79.0 46 佐賀県 100.6 4 沖縄県 79.0 47 青森県 103.7 6 福井県 79.4 7 滋賀県 79.9 長野県が断トツの1位、青森県が際立って高いことは一目瞭然です。 がんの部位別に、肺がん、大腸がんの順位をみると、長野県はそれぞれ1位、8位であるのに対して、青森県はともに最下位でした。このようにがん死亡率の実績をランク付けすることによって、がんに地域格差があることが明瞭となりました。そこで、がん死亡率の地域格差を縮小させる対策を探るために、回帰分析という手法を用いて、a)「がん予防力(一次予防)」、b)「がん検診力(二次予防)」、c)「がん医療資源機能力」の3つの指標ランキングと、これらを総合した「がん治癒力総合ランキング」を計算(専門的・技術的な詳細は割愛します)した結果を示しています(分析者は、東京医科歯科大学大学院・医療経済学分野・井上裕智氏)。 結論だけ申しますと、a)がん予防力ランキングの都道府県順位(1〜5位)は富山、長野、山形、石川、沖縄、b)がん検診力のベスト5は、宮崎、長野、埼玉、宮城、大分、c)がん医療資源機能力のそれは、香川、徳島、長崎、大分、高知でした。 がん治癒力総合ランキングのベスト7とワースト5は次のとおりです(偏差値で表現してありますが数値は省略)。なお比較のため括弧内は死亡率順位を再掲。 1位 長野県(1) 43位 北海道(40) 2 福井県(6) 44 佐賀県(46) 3 大分県(2) 45 鳥取県(43) 4 滋賀県(7) 46 福岡県(42) 5 山形県(12) 47 青森県(47) 6 富山県(10) 7 宮崎県(9) ご覧のとおり、がん死亡率順位と見比べてもらいますと、ベスト、ワーストの共通している県の多いことに気付きます。予防、検診、医療資源機能の総合力によって、がん死亡率を引き下げることに成功していることがおわかりでしょう。しかも長野県はc)の医療資源機能力がベストどころか33位に甘んじていることも注目していただきたい。 寿命、がん死亡率ともに最低の長野県が、実は医療費抑制の優等生であることもよく知られています。その証拠の1つとして、朝日新聞(2月17日付)が次のように報じています。全国健康保険協会(通称「協会けんぽ」と呼ばれていますが、中小企業のサラリーマンが加入している旧政府管掌健康保険組合が昨年から改組されたもの)が、これまで全国一律だった保険料率を今秋、都道府県別に切り替える準備中です。その際、長野県は、全国でもっとも低い7.68%(0.52%減)になるのに対して、最高の北海道は8.75%(0.55%増)となると推算され、もともと全国統一保険料だったのが、両者間で1.07%もの差がつくことになります。同協会の長野支部代表は、「長野の医療費が安いのは先人の努力。制度変更の果実として還元すべきだ」と大幅引き下げを主張したと言うのです。実際には、これでも保険料率の格差は激変緩和措置で抑えられているようなのです。 医療費抑制に躍起になっている厚生労働省や協会けんぽを初め、専門家の間で、「医療先進県」の長野県が理想の姿と映っているのも当然でしょう。しかし、「長野モデル」は霞ヶ関主導で出来たものでないことは言うまでもありません。「先人の努力」の筆頭に挙げるべき人物は、佐久総合病院の若月俊一・名誉総長(1910〜2006)しかおられません。「信州の上医」と呼ばれたり、怪物の名に羞じない大物医者です。戦後のわが国で農村医療を確立した功績により、アジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞(地域内リーダーシップ部門)」を受賞されたり(1976年)、永年の保健衛生功労に対して勲二等旭日重光賞を授与されています(昭和56年)。 秋田大学の学生時代に若月先生の講演を聞いたことがきっかけとなって、佐久総合病院に内科医をして勤務しながらの芥川賞作家・南木佳士(1951〜)が、先生のご生前、農民とともに生きた波乱万丈の半生を生き生きと評伝に書いています(「信州に上医あり ― 若月俊一と佐久病院 ― 」、岩波新書、1994年1月刊)。 東大病院・大槻外科出身の若月先生は、戦争末期の昭和19年1月に悪名高い治安維持法違反の容疑で約1年間、留置場に拘禁されます(前年出版した著書「作業災害と救急処置」という単行本が逮捕の主因)。その年末、起訴猶予となり突然釈放されましたが、大槻教授の「温情ある計らい」で、翌20年3月に創設間もない、入院患者もいない佐久病院に赴任して農民との付き合いが始まります。南木によると、ロマンチシズムが色濃く混じる「唯物論」に立脚した考えの持ち主です。97歳の今も矍鑠としてご活躍中の日野原重明先生のバックボーンがキリスト教だとすると、まさに好対照と言えましょう。 また先生の赴任先が信州の佐久だったのは幸運でした。なぜなら、佐久の人たちは情よりも理念を重んじる傾向が強く、先生の新しい医療理念に基づく啓蒙活動を受け入れるだけの資質が農民の側にもあったのでした。 その後水を得た魚のように、本業の外科治療(腕のよさが評判)はもとより、「農夫症」の研究、農業公害対策などに加えて、病院経営やJA長野厚生連(医療協同組合)設立にも絶大な手腕を発揮されます。ここでは、先生の真骨頂である農民とともに、患者に寄り添う永年の医療活動が、今日の長野モデルと直結する実践だったと考えられます。 佐久総合病院を経て、当時、南相木診療所長として地域医療の第一線で活躍していた色平哲郎(1960〜)医師(東大工学部中退、世界を放浪後に京大医学部卒という変り種で、現在、同病院・地域ケア科医長)は、著書「大往生の条件」(角川oneテーマ21、2003年1月刊)の中で次のように語っています。 「若月先生はじめ、佐久病院の諸先輩方は、(昭和20年11月から)『農民とともに』をスローガンに掲げ、『出前医療』と称して、保健婦、看護婦と一緒に村々を訪ね、田んぼのあぜ道で血圧を測り、健康相談に応じた。医師や職員が実際に『役者』として公民館に上がって、公衆衛生をテーマにした『劇』を演じ、娯楽を通して、人々のなかに意識を育てていった。『健康手帖』をつくって、住民ひとりひとりに配り、健康に留意する仕組みをこしらえた。『予防は治療に勝る』、『早期発見、早期治療』、今日ではどこの医療機関でも目にするこれら標語も、佐久病院が発信源だった。・・・『患者に寄り添う』ために医師自ら、人々のなかに飛び込んでいったのである。その結果として健康で長生きが達成され、二重、三重のバックアップ体制による自宅での看取りも特別のことではなくなり、長期の『社会的入院』が減り、医療費が低く抑えられるようになったのだ」 結論を急ぎますが、「長野モデルは一日にして成らず」です。「道なお険し」を十分承知しながら、若月先生たちの伝統モデルがさらに全国的に発展することこそ、あるべき医療改革の道ではないかと大きな期待を寄せています。 (2009年3月11日) |
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