ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.135  カルテの「 開示」と「返却」
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 この冬は肩関節痛や腰痛に悩まされています。近くの病院の整形外科医に、関節の動きや可動範囲を診てもらい、レントゲン撮影もした結果、年齢相応の骨の変化しかないとの診断にやれやれと思っています。本人としては老化の進行は止めようもないと諦めています。

 僅かな体験ながら、患者に対する病院側の姿勢に変化が起こっていることに気付かされます。受付横の小さいデスクに年配の看護師がいて受診相談に応じていたり、支払いの際には保険点数など詳細な明細書付き領収書をくれたり、院外薬局で渡される薬袋や説明書も大変丁寧なものになっています。絵入りの薬剤名はもちろん、使い(飲み)方から薬の作用などのほか、処方した診察医師の固有名詞までプリントしてあります。要するに病院側が患者のための情報開示に努力していることが明らかです。

 診察する医師も昔に比べると随分丁寧な説明をされるようになっています。目の前の患者が、「白衣を着ない医者」だとはご存知ないはずですが、患者である私はいつも診察医が書いている横文字混じりの「カルテ」の中味を見たい気になります。何となく覗き趣味のようだし、医者のくせに素人のふりをしているだけに引け目を感じてしまいます。

 今回は、そのカルテについてのお話です。

 もともとカルテは、card(英語)と同じ意味の Karte(ドイツ語)由来の明治期以降、医療現場で使われてきた和製ドイツ語です。カルテの日本語は「診療録」で、医師法には「医師は診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない」(第24条第1項)」し、病院や診療所の管理者は、これを5年間保存しなければならない(同第2項)と規定されています。さらに診療録の記載事項として、「@ 診療を受けた者の住所、氏名、性別と年齢、A 病名と主要症状、B 治療法(処方と処置)、C 診療の年月日」の4項目が挙げられています(医師法施行規則第23条)。

 しかし、医師法は記載と保管の義務を明記していながら、その書き方には法律で定めた書式がありません。医師の裁量に任されています。

 また診療録やそれに記載されている患者情報は、医師や医療機関に「所有権」があるとまでは書いてありません。平たく言うと、カルテという紙からなる物に、所有権、保管権はありますが、記述された情報に所有権があるとは言えないと同時に、患者側にも所有権があるとは明示していません。

 父親が子に対するような専制主義(パターナリズム)の医師が、患者を「診てあげる」、患者は「診ていただく」という関係が長年にわって続いてきました。医師の職業倫理は、古来ギリシャの医聖ヒポクラテスの影響を強く受けてきました。医の倫理規範とされた「ヒポクラテスの誓い」の一節には、「能力と判断の及ぶかぎり患者の利益になることを考え、危害を加えたり不正を行う目的で治療をすることはいたしません」と記載されています。その一方で、ヒポクラテスは、医師の心得として患者には「依らしむべし、知らしむべからず」に徹するよう説いています。この「善行モデル」からは、患者は医師の言いなりになる、命令に従うべき存在に過ぎないことになります。黒澤明の映画に登場する、あの「赤ひげ」先生の診療姿勢 ―患者のためには誰をも恐れず、粉骨砕身、わが道を行く「赤ひげ医療」― こそ医師の理想像だったのです。

 1980年代に相次いで起こった一連の不幸な医療事件(芙蓉会・富士見産婦人科病院や報徳会宇都宮病院(精神科)など、患者無視の極端な儲け主義による事件のことをご記憶でしょう)を契機に、高い授業料ではありましたが、ようやくわが国の医療は大きな転換期を迎えることになりました。

「厚生白書」が「医療はサービス産業」であると明言したのは1995年のことでした。お医者様(二重の敬語)に「診ていただく」、「お任せ医療」から、今や「患者の権利」が尊重され、患者も医療者も医療に参加し、相互に尊重し合う関係(パターナリズムからパートナーシップへ)に切り変わろうとしています。「インフォームド・コンセント」や[セカンド・オピニオン」が言葉だけでなく、実際行動としてようやく定着しようとしています。このような動きのなかで「カルテ開示」の問題が浮上してきました。

 かつての、「カルテは見せられません」一点張りだった医療機関も、カルテ開示に応じなければならない時代になりました。長期にわたる市民運動の歴史も見逃すことはできません。その1つ「医療情報の公開・開示を求める市民の会」(1996年4月設立)の勝村久司・事務局長によると、カルテ開示が患者にとって不本意な医療根絶に貢献できる理由を次の6点に要約しています。

 @ 真のインフォームド・コンセントを実現、A 真のリスク・マネージメントを実現、B 患者の人権が確立され、医療界の民主化と意識改革を推進、C 患者が生涯にわたり健全な医療を享受、D 医療界が透明になり、医療の質の向上と底上げを実現、E 事故から学ぶことができ、同じ被害を繰返すことを防止

 また勝村氏は、積極的にカルテ開示の実践を始めた医療機関はどこも、「心配していたことは杞憂だった。開示のメリットはいくつもあったが、デメリットは一つもなかった」ことを明言しています。

 一方慎重論も根強いのです。日本診療録管理学会理事長の木村明・元新潟市民病院長(故人)は、まずカルテは医療活動(形として残らないサービス提供)の唯一の証しであり、医療機関にとってもっとも重要な「公式記録」だと位置づけます。しかし日常診療で多忙を極める医師一人で行うには時間的余裕がなく、制度的に診療録管理士がいないし、経済的な保証が一切ない現状では、カルテ開示は病院の良心だという建前論には不賛成だと言います。このほか、がんや精神病などの患者に病名告知がし辛い場合とか、裁判件数の増加に繋がらないかとか、医療側にとっての不安材料もあります。

 開示から一歩進んで、自分の診察した患者全員に、診療直後、医師の方から積極的にカルテ内容をプリントして手渡しする「カルテ返却」を30年にもわたって実践している内科医がおられます。宮崎県日向市で開業している日向内科医院の井ノ口裕院長です。ふつうの診療所と違って、2台のパソコンと「問題指向型POSカルテ」のソフトを導入し、1名の診療情報管理士と対等の分業をしながらカルテ返却を続けておられます。カルテ作成の流れは、@ 待合室で問診票への記入(患者)、A 問診票の手渡し(患者→スタッフ)、B 問診内容の入力(スタッフ)、C カルテ内容の点検・返却(診療情報管理士)、D 診察室での症状確認、訂正など(医師)、E 診察結果をメモにして手渡し(医師→診療情報管理士)、E 診断根拠などをプリントアウト(医師→患者)という手順です。

 井ノ口先生ご自身がパソコンの技術力があって、POS Problem oriented system(1973年に日野原重明先生が日本に紹介され、情熱をもって普及に尽力された)に精通しておられたことが成功の鍵となっています。診療所の業務が加重になって退職する職員はいないし、診療所経営も順調のようです。もちろん、こんな診療所が患者から喜ばれていることは言うまでもありません。

 井ノ口先生のユニークな取り組みに、深甚の敬意を表しながら絶大な拍手を送らせていただきます。このような試みが一段と普及するなら、わが国に本当の医療変革を起こす特効薬になること間違いなしです。

<参考文献>

 井ノ口裕:「カルテ返却−医療不信を解決する特効薬−」 日本評論社 
       2009年1月

 和田 努:「カルテは誰のものか−患者の権利と生命の尊厳−」 丸善ライブラリー 
       平成8年11月


 勝村久司:「患者と医療者のためのカルテ開示Q&A」 岩波ブックレット 
       平成14年9月
                          (2009年2月25日)

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