ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.131  物理学者のがん患者(その3)
― 「がん登録」実現を目指して ―
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 今回も故・戸塚洋一教授の遺言とも言うべき「がんデーターベース」提言について考えてまいりましょう。たしかに、情報なしではがん患者の闘病生活には不安がいっぱいですし、国の対がん戦略も計画しようがありません。しかし社会的な生物であるヒトの場合、同じく「データベース」といっても、物理学とは別次元の難しさが付きまといます。「がん登録」制度を実現させることがとりもなおさず戸塚教授の提言に対するお答えなのです。

 ところで、「がん対策基本法」が2007年4月に施行されました。がん大国・日本で国のがん対策の現状に不満を抱いて、結束し行動を起こした患者たちがこの法律を成立させた(2006年6月)原動力だったと言います。その基本理念の1つは「がん医療の均てん化」です。平たく言うなら、「日本中どこでも誰でも、等しく科学的で適切ながん医療を受けられるようにすること」です。そのために、がん専門医の育成やがん拠点病院の整備と並んで、「がんに関する情報の収集提供体制の整備(法・第17条)」が重要な柱となっています。がん患者の氏名、生年月日はもちろん、治療経過を一元的に記録する「がん登録」の推進を法律が保証しているのです。がん登録のナショナル・センターになっている国立がんセンターがん予防・検診研究センターの祖父江友孝・情報研究部長は、法律が「情報収集に言及した意義は大きい」と評価しています(2006年6月17日 読売新聞)。

 わが国で1年間に何人ががんで死亡しているかは、世界に冠たる「人口動態統計」という全数システムが確立しているので正確に把握できています。一方、がん患者は1年間に何人発症しているか(罹患数とか罹患率のことです)は正確に分かっていないのです。ちょっと考えてみてください。かつての国民病だった結核は、今でも患者の届出義務(結核予防法)があります。がん患者にはこれがない、つまりデータ収集のシステムがないのです。3人に1人はがんで死亡するのは正確な統計ですが、「2人に1人はがんに罹る」というのはまだ推計値でしかないのです。

 そこで登場するのが「がん登録」です。がん対策といってもまず実態把握から始めなければなりません。実態を表す3大指標は、@死亡率、A罹患率、B生存率です。これら3つのうちAとBの計測を可能にする仕組みががん登録です。がん登録は、「地域がん登録」と「院内がん登録」に二大別されます。

 まず「地域がん登録」は、対象地域の居住者に発生した全てのがんを把握することによって、がんの罹患率と地域レベルの生存率を計測する仕組みです。

 ここで「全て」という言葉には大きな重みがあります。

 罹患数(率)を把握する主な情報源は、(1)がんの診断情報を記録した医療機関(病院だけではなく、地元の開業医も含むことに注目してください)からの「登録票」(必須の標準25項目が定められています)と、(2)対象地域における人口動態死亡情報の2つです。両者を統合して、死亡しているのに登録票のない患者の補完登録を行うとともに、登録精度を計測します。がん患者は1つの病院に罹るだけではありません。同じ患者を誤って複数計上することのないよう、個人識別指標を照らし合わせて個々の患者(腫瘍)ごとに、「中央登録室」で集約する仕組みです。現在34道府県1市で稼動中ですが、その事務量だけでも大変なものです。

 個人識別のために正確な情報は不可欠です。また全てのがんを把握しなければならないので、登録時に個々のがん患者自身から「同意」を得ることをしないで登録するのが国際標準となっています。一見、個人情報保護の観点からは本人同意原則に対立する行為となっていることにも注目してほしいのです。「言うは易し」ですが、がん登録の実務の大変さは保険会社で契約者の名寄せ作業を体験された方なら直ちに実感されることでしょう。

 そしてがん患者はもちろん、医療機関、行政、研究機関の産官学の協力体制抜きに、がん登録はあり得ません。前回大阪府がん登録事業がスタートした当時のことを思い出したのは、このことを強調したかったからです。

  つぎに「院内がん登録」は、当該施設でがんの診断・治療を受けた全患者について、がんの診断、治療、予後に関する情報を登録する仕組みです。こちらはがんの受療状況の把握と、がん患者の生存率の計測を主な目的にしています。個人情報を取り扱うものの、1つの施設内に留まるため、個人情報保護法上の問題点はありません。円滑な運営のためには、米国のような「腫瘍登録士」のような専門職がいて、医師の手を借りずとも独自に新規症例を検索して必要な情報をカルテから抽出し、入力できる標準システムが理想です。わが国ではまだその前段階ですが、2006年から「がん診療連携拠点病院」に指定されている病院(現在約350箇所)では、統一的な「標準登録様式」に基づく院内がん登録の実施が義務づけられています。2009年にはこれらの病院ごとに「3年生存率」の集計が始まることになっています。

 とは言っても非医師の担当者(通常、診療情報士)の数は少なく、専門知識を備えていない場合が多いので、情報入力は診療実務で多忙な医師に依存している病院がほとんど、というのが実情です。

 昨今医療崩壊が進行している最中、この院内がん登録に限っても、財政的支援はもちろんのこと、登録の標準化(形式、対象、内容、用語の定義、コード体系などフォーマット、手順、システム開発)、さらには腫瘍登録士の養成、教育など、課題は山積しています。国際的にみても、わが国は「がん登録後進国」だと言われ、登録精度の一段の向上もいま1つの重要な課題です。院内がん登録が充実ができてこそ、地域がん登録の精度向上が達成できるのです。

 たしかにがん対策基本法の成立・施行は大きな前進ではありましたが、あくまで「理念」を謳いあげたに過ぎません。鎌田實先生は、医療費を増やさない基本法を作っても絵に描いた餅になるのでは、と心配しています。がん死亡率を20%減らすという目標も、今のままでは達成できないので、(麻生)首相が国民に向かって、がん登録への協力を呼びかけてはどうでしょう、とまで言っています(12月21日 毎日新聞)。基本法の付帯決議を受けて、一日も早い「がん登録事業法(仮称)」の制定を望む声が、がん登録の現場で大きくなっているのは当然でしょう。

 早くからこの困難な仕事に取り組んできた大阪府がん登録事業は、いろいろな成果を上げてきました。たとえばがんの部位別に、罹患率と死亡率の年次推移を見ると、胃がん、子宮がんは、罹患、死亡ともに減少し、肺がん、結腸がんはともに増加しています。また増加しながらも、罹患率と死亡率が開いていく結腸癌、乳がん(これを罹患率と死亡率の乖離と言います)もあれば、両者が接近したまま平行して増加する肺がん、肝がんがあることも明らかになり、予防活動の評価の指標にも使えます。

 残念ながら、がん登録事業の成功イコールがん死亡率減少という単純な構図が描けないのも事実です。即効性がないということです。依然として大阪府のがん死亡率は、全国平均に比べ最下位の位置に甘んじていることからも明らかでしょう。

 がん対策を軌道に乗せるためには、地道ながら着実ながん登録の実現しかない、というのが「ひとり言」子の今年最後の結論です。

<参考文献>

 藤本伊三郎:地域がん登録による対がん活動の評価 ―大阪府がん登録事業の成果― 
       地域がん登録全国協議会 2003年

 祖父江友孝ほか編集:地域がん登録の手引き 改定第5版 
       地域がん登録全国
協議会 2007年

                        (2008年12月24日
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