ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.129 物理学者のがん患者(その1)
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 今月は私の誕生月で満76歳になりました。幸い大病なしに過し、入院・手術の体験もしていません。今のところ海外旅行や車の運転もできるだけの「体力」は残っていると喜んでいます。でも80歳へと向かう老いの坂が厳しいことを、肩関節の痛み、前立腺症状、疲れやすさなどで日々実感しています。前にも書きましたが、毎日の新聞の死亡記事は必ず目を通します。先日も日経朝刊に載った5人全員の死亡年齢が私より若いことに気付いて、自分もそんな歳になったかと改めて感心したことでした。

 さて、がんが日本人のトップ死因(1981年以降)だ、というのはよく知られています。今では男の3人に1人、女の4人に1人はがんで亡くなっています(厚生労働省「平成18年人口動態統計」)。最近も、緒方拳(肝臓がん)、筑紫哲也(肺がん)が惜しまれながらがんに倒れ世を去りました。

 今回は、ノーベル賞に最も近いと言われながら大腸がんで亡くなられた物理学者・故戸塚洋二氏(以下、敬称略)の「生と死のドラマ」を紹介することにしましょう。

 戸塚洋二のことを知ったのは、ジャーナリスト立花隆との対談「がん宣告『余命19カ月』の記録」(文藝春秋2008年8月号)です。彼は、知る人ぞ知るノーベル物理学賞の受賞に輝く小柴昌俊後継者として、奥飛騨にある「スーパーカミオカンデ」でニュートリノの質量観測に成功し(1998年)、それまで質量ゼロとされていた素粒子ニュートリノに重さのあるという大発見をした世界的な物理学者です。対談をするきっかけは立花の膀胱がん体験記(同2008年4月号〜7月号)を読まれた戸塚から闘病記録を添付したメールが立花に届いたことからです。あとで分かったのですが、対談を収録したのは6月13日で、偶然にもこの雑誌発売の当日、7月10日に亡くなられましたので、わずか一ヶ月前のことでした(同9月号に掲載の裕子夫人の手記「夫と最期の時を共にして」)。

 戸塚洋二の大腸がんの病歴をざっと振り返りますと次のとおりです。

 発病は2000年10月、ご本人の58歳のときです。初発症状は、その前年から少しの下血があったのですが、忙しさにかまけて放置していたところ、ある日かなりの量の出血があってこれは痔ではないと直感して、カミオカンデの近くの外科医を受診されます。すでに触診で3センチ大になっていましたのですぐ国立がんセンターへ紹介され、大腸がん(ステージ3aの進行がん)と確定診断されます。翌11月に直腸と結腸を30センチ切除し、リンパ節の廓清術も受けられました。主治医からは「5年間生存率80%」と言われて、80%もあるのなら大丈夫を思って退院したそうです。

 ちょうど、2001年にカミオカンデが再起不能といわれるまでの大破損事故を起こし、彼は術後にもかかわらず現場を指揮して復旧作業に没頭してほぼ1年で実験再開にまでこぎつけたのです。朝8時から夜1時まで体力的にきつい仕事の毎日だったのです。復旧した後、2003年には高エネルギー加速器研究機構(高エネ研)の機構長に就任されて、治る可能性が充分あると思っていた矢先、2004年に左肺に2箇所の転移が見つかります。がん再発の始まりです。これは手術で摘出し、術後半年だけ抗がん剤(5−FU)治療を受けます。これの副作用(下痢による脱水症状)に苦しみながらも仕事と治療を両立させ、この時期までは肉体的につらくとも自分は助かるだろうと楽観的だったそうです。

 ところがその1年後、2005年に今度は右肺に多発性の再々発(当初は10個、最後は20個を超える)をします。このとき戸塚は、大きな実験施設の建設計画を推進している最中でしたから、「あとどれくらい働けるか、余命はどのくらいか」の2点が最大の関心事だったのです。

 当然のことながら、ご自分でもがんの勉強をされ、がん研究の大御所にもセカンドオピニオンを求められます。治療の選択肢として重粒子線治療はバラバラにたくさんある腫瘍には使えないことがわかり、当時の新薬、オキサリプラチンという抗がん剤を使用することにされます。アメリカのデータでこの薬による治療だと、平均余命は19ヶ月だと知って、自分の寿命を月単位で区切られたときは、年単位の余命宣告とは違って大変ショックだったのです。また余命何ヶ月はどの時点から数えるのか、データは抗がん剤治療開始からしかないから、治療をやらなかったときの余命はわからない、「もし半年待って始めればその分だけ余命が稼げるかもしれない」と主治医から冗談を言われます。仕事を辞めるか、治療の開始を延期するかの選択しかないので、結局、仕事の区切りがつくまで半年間延ばして、2006年3月から開始されました。

 この辺りから実験物理学者という「科学者」でもあるがん患者の本領が発揮されます。つまり、がん患者自らを実験台にした精密で冷静な観察が継続していきます。具体的には医者からもらったCT画像をデジタル化して、腫瘍サイズの時間的変化を見たり、抗がん剤の種類、投与回数と、腫瘍マーカー(がんに特徴的な物質の血中濃度を測定できます)の数値との関係をグラフ化して、患者自身で分析されます。

 オキサリプラチン、イリノテカン、アバスチン、TS−1とセツキシマブの5種類の抗がん剤を使用されますが、それぞれ使い始めは有効(マーカー値がいったん下がる)ですが、ある時点で効かなくなるので、抗がん剤の種類を替えるタイミングを主治医と相談して決めるのに、患者の作成したグラフが役に立ちます。またダブリングタイム(がんの細胞数が2倍になるまでの時間)も自分の肺がんで計算して、抗がん剤を使ったことによって、半年のダブリングタイムが1年から3年近くに延長したことで薬の有効性も確かめておられます。本来なら壮絶なはずですが、がんを楽しみながら観察できるのは、まさに科学者冥利に尽きるとも言えます。

 しかし、がんは生やさしい代物ではありません。両肺の転移からさらに全身に拡がり、骨、肝臓、脳へも転移します。科学者にとって命より大事な脳には左右に3センチ大の腫瘍があり、言語中枢を圧迫するので言葉が出にくくなったり、意識混濁と幻覚を見るせん妄状態になったりもしています。幻視の体験では、葉っぱのお化けが浮かんでくるのですが、別の場所にある理性を持った(科学者としての)頭脳があっけにとられてこの絵を見ています。この幻覚が膨らんで理性的頭脳を圧倒するかどうかが関心事になったりしています。ただステロイドホルモンを服用してからは幻覚を見なくなり、研究対象がなくなってしまって面白いなあと思ったとも言います。「サイエンスを極めた人はすごい」とあの立花が率直に感心しているくらいです。

 結局、平均余命19ヶ月といわれたときから数えて、対談時には幸いなことに25ヶ月を超えましたが、お亡くなりなったのはその1か月後ですから、彼の余命は26ヶ月で終わったことになります。戸塚洋二は、このほかにも人生観、世界観、宗教観、さらに悟りについても語っているのですが、医療界に重要なお願い、提言もなさっています。

 次回は、白衣を着ない医者の視点から彼の提言についてコメントしてみたいと思います。
 

                         (2008年11月16日)
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