ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.121 こだわりのスイス観光
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 先週末、チューリッヒからの直行便で約11時間の空の旅を終えて成田空港に到着しました。飛行機からタラップへ出た瞬間、特有の湿気と熱気に曝され、やはり東京は暑いなあと実感しました。念願がかなった「スイスアルプスの名峰」を巡る6泊8日の駆け足ツアーから帰国したときの最初の印象です。

 私の海外への初体験は、かれこれ40年も昔にさかのぼります。1970(昭和45)年6月から7月に45日間かけてロンドンとアメリカへの「出張旅行」でした。主な目的は、ロンドンで開催された第10回国際保険医学会議への出席と、当時、米生保事業で始まったばかりのパラメディカル診査、新契約査定のコンピュータ化の実際を勉強して来ることでした。(医務部の「社医通信」bU2〜68に掲載した詳細な出張報告は、私の若かりし頃の思い出として大事に保存してあります。)

 今回は、なぜ「念願の」スイスアルプスなのか、と短いパックツアーの印象を綴ってみることにいたします。

 構成メンバーである日本保険医学会から3年に一度の国際保険医学会議に出席するのが、当時すでに慣行になっていました。第10回会議へも前年の秋には浮島晤郎(千代田)、有沢誠(大同)の両医務部長(当時、すでに故人)を正・副団長とする生保8社9名の社医からなる代表団が結成され、明治生命からは全くの偶然から、もっとも若輩の私がその末席を汚すことになりました。

出席が決まって、医務部担当の菅原清常務(故人)のところへご挨拶に行ったところ、「君は若いのだから観光だけで帰ってくることのないように」と忠告されました。今から思うと、この機会を利用してしっかり勉強して来なさいという意味で優しく励まされたはずです。でも根っから真面目人間の私は、その言葉を厳しく受け止めて国際会議とウィークデイの生保会社訪問以外は一切観光はしない、という頑なな方針のもと出張計画を立てたのです。

自己顕示欲と若気の至りでしょうか、生保・保有契約高が世界第2位の国から9名もの代表が出席するのに、誰も発表しなければ何らの足跡も残さず、将来、東京で国際会議を開催する可能性も薄くなるとも考えました(実際に、東京で第15回会議が実現したのは1986(昭和61)年10月のことでした)。発表までの経緯や折衝には紆余曲折がありましたが、幸い会議の第1日午前の終りに、10分間の講演「日本における死因と危険選択」が許されました。

 「座長の招きに応じて壇に立った同医は些かも臆することなく大聴衆を前に悠々とその一声を送った。・・・堂々と弁じ終わって同医が降壇する時の拍手は午前中のどの演者よりも多かったと小生は信じている。・・・」(浮島晤郎:「第10回国際保険医学会議に出席して」、「診査と医学」bQ1、昭和45年9月1日、生命保険協会)という一幕が実現しました。きっと午前の部が無事に終わってこれから昼休みに入るので、聴衆一同開放感を味わうための拍手だったのでしょう。

そんなわけで、代表団はロンドン会議の準備に追われる私とは別に、それぞれチューリッヒと、ミュンヘンにある世界2大再保険会社への視察を兼ねて、ヨーロッパ観光を済ませてからロンドン入りをされ、3週間ぶりに再会を果たしたのです。その時の「ユングフラウ」の景観に圧倒された感動を、浮島先生初め団員の皆さんからその後何度聞かされたことでしょう。途中の地名はもちろん、展望台に至る登山鉄道の経路など忘れようにも忘れることができませんでした。元気なうちにぜひとも同じような体験をしてみたいものだというのが、長年の夢だったというわけです。

もう20年以上も前から数年おきに発症する持病のアキレス腱痛(「滑液包炎」とか「周囲炎」とかの病名はつきますが原因不明です)が今年は出ないままなので、念願実現のために出かけることにしました。シャモニー・モンブランやマッターホルンはお天気がイマイチで、期待したほどの眺望を楽しむことはできませんでしたが、お目当てのオーバーラントの3名山、アイガー、メンヒ、ユングフラウは、文字通り雲ひとつない抜けるような快晴のカンカン照りで、その荒々しくも雄大で神秘的な全貌を見せてくれました。私のコースは、彼らのグリンデルワルト経由ではなく、ウェンゲンから一気にロープウエイで空中散歩して1000m近く高いメンリッヘンに昇り、通称おじゃま山と言われるチュッゲンの尾根づたいに進みました。一面に咲き乱れる高山植物を愛でながらクライデシャイデックまでなだらかな下りのコースでハイキングを楽しみ、素晴らしい3山の雄姿を満喫できました。今回パックツアーはこの一日だけでも十分お釣りがくるほど楽しいものでした。

クライネシャイデックからは、アイガー、メンヒの山腹をくり抜いて作られたユングフラウ鉄道(1912年に16年の歳月をかけて完成、百年後の今日も利用できるという壮大な構想の工事計画には頭が下がります)に乗って、ユングフラウヨッホ駅 Top of Europe(3545m)まで行き、氷の宮殿を経て展望台から周囲の4千メートル級の山々やヨーロッパ最長のアレッチ氷河など360度の眺望に感動しました。

でも、有名なエーデルワイスが自生している所はもう見れなかったし、氷河が大きく後退していたり、銀白に輝く三角形のシルバーホルン(宿泊したウェンゲンのホテルと同名)の底辺には一筋の岩肌が黒く現れているなど、地球温暖化の影響を随所に痛々しく現していました。

ウェンゲンへ入る手前のラウターブルンネン駅の近くには、ヨーロッパ第2の規模でゲーテも感動して詩を残したと言われるシュタウブバッハの瀧(305m)があって、豊な水量のため大きな放物線を描いて流れ落ちる力強さは印象的でした。そのほか、今年は雨が多かったそうで方々で名前こそないものの、数十もの瀧の景観が楽しめました。

ありきたりの観光案内はここまでにして、2、3気付いたことを書いておきます。

さすがに世界に冠たるリゾート地だけに、各国からの観光客で溢れんばかりのスイスでした。もちろんもっとも多いのは日本人ですが、次いで目についたのはインド人の団体客でした。独特の容姿、風貌と服装ですぐわかります。急速な経済成長を遂げているインドのお金持ち群団なのでしょう、態度もでかく風を切って歩いていました。とくに肥満者の多いのも目立ちます。両側から抱きかかえられてやっと歩いている老婦人もいましたし、男性の多くは明らかなメタボ体型で、ズボンのベルトの上に太鼓腹がどんと乗っかっています。一緒にいる日本人のメタボなど可愛いもので比べものになりません。いわゆる白人(コーカサス人)男性にも同様に肥満した人を大勢見かけました。メタボリック症候群を擁護する気は毛頭ありませんが、現今のわが国のメタボ・ブームとも言うべき風潮を苦々しく思っている私の持論をより強固にする結果となりました。

ほぼ2年ぶりのパックツアーも、グループ中で最高齢者だったのですが、やや排尿回数が多かったことが気になるだけで、まずは無事に終えることができました。おかげで、まだまだ80歳までは海外旅行も可能だろうと妙に自信をつけて帰ってまいりました。

                                           (2008年7月23日) 

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