ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.115 「あなたの余命は教えられません」
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 私が医学校を卒業したのは昭和32(1957)年ですからとっくに50年も昔のことです。当時、医師国家試験の受験資格に必須の1年間のインターン制度がありました。そのインターン中に同級の親友と組んで大阪市内の病院で一日交替の夜間診療と当直医をした経験があります。今では信じられないことですが、医師免許なしですから法律違反もよいところですが世間からは黙認されていたのです。当直の夜には何でもやりました。まさに蛮勇と言うしかありません。ある晩、がん末期の高齢患者のお宅から呼ばれて往診しました。すでに苦しそうに「下顎呼吸」が始まっていて、誰の眼にも患者の死期が近づいていることは歴然としていました。家族が心配そうに見守るなか、年配の親族から「先生、あとどれくらいもちますか?」と問われましたが、まともに的確な答えが出来ません。それもそのはず、先輩からこんなときにどんな話法で対応すべきか聞いてこなかったのです。しどろもどろの私に、こんな未熟な医者では頼りにならないと反って同情されたのでしょう、さして追求もされないまま、型どおりの聴診、血圧測定のあとビタミン剤入りブドウ糖の静脈注射だけしてほうほうの態で辞去したのでした。今も思い出すたびに冷や汗が出てきます。

 実は、死期を予測することは、新米の臨床経験ゼロの医者だから難しいわけではないのです。「何時亡くなるか、どれだけもちますか」という家族からの質問、つまり余命を予測することほど臨床医にとって難しいことはないと言います。あの有名な日野原重明先生すら、真の末期について次のように言っています(「いのちの終末をどう生きるか(新装版)」春秋社2002年6月刊)。

 「人の顔は、全部違うのではないですか。人の顔が違うごとく、同じ病気でも現れ方は全部違うのです(オスラー)」、「経験はだまされやすい。判断は難しい(ヒポクラテス)」を引用しながら、一回経験したからと今度もというと、そうはいきません。予測は難しいということを心得た上で、家族がうろたえないように、幅をもって私たちは予測をしていかなくてはならないと思うのです。

この言葉は、臨床医学は科学(サイエンス)だけではなくて芸術(アート)ですという彼の持論そのものと言ってもよいでしょう。こんな先輩の指導を受けていたら、あの夜、もっと冷静に対処できたかも知れないと思う反面、いや医学も人生も未熟だった私では無理だった、と妙に納得しています。

 たまたま先月発刊された幸田真音の「あなたの余命教えます」(講談社)という本を店頭で見つけ、「え!本当?」という気持ちもあって咄嗟に買ってしまいました。ご存知のとおり、幸田真音は外資系金融機関の勤務を経て、1995年から作家活動を開始し、現在押しも押されもしない最高の「経済小説」の書き手と持て囃されている売れっ子作家で、しかも政府税制調査会委員など公職も務める才媛です。経済音痴の私はこれまで彼女の作品とはまったく無縁でした。臨床医にとって最大の難関である「予後学」(prognosis、病気・手術などの経過を前もって告げ、その結果を医学的に予測すること)にどのように切り込んで小説に仕上げたのか興味津々でした。

 結論から言うと、脂の乗った経済通の作家と言えどもやはり医学については音痴だな、というのが読後の率直な感想でした。ちょうど彼女と私は逆の立場にあると言うと、またまた比較仕様もないことをやってしまい、彼女には失礼に当るでしょうか。

さてミステリアスな近未来小説になっているので、その中味を紹介するのは興ざめです。でも、ゲノム解析、予防医学の分野に「データマイニング」という最先端のコンピュータ手法を合体させることによって、「余命予知」というビジネスを可能にする話の筋が、本の帯広告の文面から見えてきます。ゲノム解析は、個人のDNA検査により遺伝子工学的な診断に繋がり、予防医学では個人の病歴、性格、生活習慣など膨大な質問表からデータ収集をすることで、馴染みのある言葉ですから理解できても、データマイニングの方は初めてです。

作家の説明を鵜呑みにすると、おおざっぱに言って「膨大なデータのなかから、通常のデータの扱いからは想像もできなかったような知識を、発見的に獲得することを可能にした技術」(海外では「データベースからの知識発見」(英語の頭文字から「KDD」と呼ばれています)のことだそうです。もちろん、通常の人間ドック検査の何十倍、数百倍もの個人情報から大型コンピュータを駆使して、個々人の余命が年単位どころか、月単位、週単位で予知できるというのがミソなのです。しかしその可能性は極めて困難というのが現状です。

たしかに、自分の余命予測、さらに不老不死は古来からの叶わぬ人類の夢です。生きている人間は必ず死に至ります。「死亡率は100%」です。そして私が何時、どんな原因で死ぬかは未知のままで、神のみぞ知るということを信じて生きています。この小説でも、同一人物の余命について、本人と妻から別々に検査、質問表の内容を情報入力したところ、それぞれの死因と死亡時期は「胃がんで6年9ヶ月と2週間後」、「心臓疾患で15年後」という検査結果が出て来るというオチが付いています。こうなると誰も最先端の科学技術だと称して、個人の余命を教えることをビジネスにする企業を信用する人がおりましょうか。

もともと余命という日本語には、これから死ぬまでの生命時間(寿命)という意味があります。「余命いくばくもない」という慣用句があるくらいで、かなり短期間を指すことが多いと思います。

長年生命保険会社に在籍して統計疫学に親しんできた私のお答えは、個々人の余命を言い当てることはできませんが、「生命表」の原理を使って、同じような属性(性別、年齢初め医学的情報などのことですが)を持つ集団の平均的な余命を計算することは可能だということです。生命表の平均余命は、英語の expectation of life 、または life expectancy を翻訳したもので、これからの生存時間の平均的期待値、つまり集団の予測値のことです。

どうやら我田引水の生命表理論(詳しくはbP0〜bP3をご参照)に引きずり込んだようです。しかし、才女の誉れ高い作家のことですから、私の話など先刻承知の上で、自分の余命はもちろん、親しい人、愛する人、逆に憎んでもあまりある人、はたまた遺産相続をしようとする人などの余命のことをどれほど知りたくても、「似非科学」に騙されて大枚なお金を巻き上げられないようにと、小説の形を取って警告しようとしたに違いありません。

また飛躍的に進歩するコンピュータの情報処理能力を駆使すれば、最新の医学テクノロジーを自在に活用することができる近未来をクールに予想しながら、ビジネス化の夢も描いて見せています。

 同時に、膨大な個人情報の漏洩、流用の怖さも指摘して、近未来の社会問題になることは必定だと予告しています。さすがに売れっ子作家だけにその実力のほどを垣間見せられたようにも思いました。

                           (2008年4月23日)
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