ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.114 「ジョン・スノー」再訪
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 昨年暮に「感染地図 歴史を変えた未知の病原体」という翻訳書が刊行されました(河出書房新社)。著者はスティーブン・ジョンソンという、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」はじめ多数の雑誌に寄稿している人気コラムニストです。訳者の矢野真千子氏によると、この本は「病原論から社会文化論、都市論にいたるさまざまな思想を織り込んだ「ブロード・ストリート物語」になっているそうです。ご記憶があるでしょうか、このHPを始めてから間もない2003年10月に書いた、「『ジョン・スノー』というパブをご存知ですか」(bU)に出てくるあのブロード・ストリートのことです。ヴィクトリア時代の、ロンドンにおける1854年のコレラの流行と取り組んだジョン・スノーが主人公の物語です。お堅い本にしては売れ行き好調で、初版後3か月も経たないうちに2刷目が出版されているほどです。私が図書館から借り出すのにも随分待たされました。

 さて、疫学をかじったことのある人にとってジョン・スノー(1813〜58)は、「スポット・マップ」という手法を編み出した疫学の父とも称される、人類の恩人と言ってもよい有名人です。すでにその概要はご紹介済みのはずなのに、今回再訪するには理由があります。それは、物語の舞台には背景があるし、なくてはならない主役のほか、脇役も敵役もいるということを知って欲しいと思ったからです。

 まず、当時はコレラのような疫病 epidemic の原因として、ギリシャ以来長い間、「瘴気(ミアズマ)説」が根強い世間の常識としてまかり通っていました。これに対して、16世紀最大の医学者、ヴェローナのジラロモ・フラカストロ G.Fracastro が、すでに「接触伝染(コンタギオン)説」(1546年)を提唱していたものの、300年後のロンドンでは全く顧みられず、医者や科学者の大半は、疫病のもとは毒を含んだ空気(瘴気)の中にあり、人を介して広がるものものではないと信じていたのです。

 では、主役のスノーは、1854年にいきなり天才の「ひらめき」でスポット・マップを作成してブロード・ストリートの井戸に注目し、飲料水をコレラの犯人だと割り出したのでしょうか。6年前の1848年9月、ハンブルグから入港した汽船の乗組員がコレラを発症して死亡し、同じ宿屋に泊まったイギリスの男が同じ病気にかかり1週間以内に国内に広がって、収束するまでに5万人もの犠牲者を出した時から、彼は臨床医(しかも最先端の麻酔医)と、コレラ研究の探偵の二役をこなしています。コレラ患者の実地調査と統計調査を土台にして、飲料水媒介説を打ちたて、すでに1849年前半には、「コレラの伝播様式について(第1版)」という31ページの論文を発表しています。しかし、スノーの仮説に対する反応は肯定的ではありながら懐疑的でもあり、これまでコレラが発生していない地区に疑わしき水を運び、その水を使った人が発症し、使わなかった人が発症を免れるかどうかを調べる「決定的実験」が欠けているという医学雑誌の厳しい論評を受けました。

 5年間、スノーは調べ、考え、待ったのです。1854年8月末に新たな集団発生が始まった時には、スノー側に自説を証明できるための筋書きは準備完了していたのです。彼が瘴気説に挑戦したのは、麻酔医としてエーテルやクロロホルムを定量的に扱っていたので、気体拡散の法則により有害な空気があっても離れた場所にいる市民にまで影響しないこと、臨床医なので、コレラが攻撃しているのは消化管で、呼吸器ではないと見抜き、コレラの原因は空気中ではなく、飲み物か食べ物の中にいると考えたからです。

ここで2人の脇役が登場します。一人は歴史上まったく無名の、人付き合いのよい28歳になるセント・ルークス教会の副牧師、ヘンリー・ホワイトヘッドです。彼も最初は世間の通説である瘴気説に何の疑いも持たなかったのですが、翌1855年の春になって、スノーの地図第2版を見せられてから、飲料水媒介説を信じるようになったのです。彼は医学を勉強したこともなく、公衆衛生が何たるかも知らないずぶの素人でした。その彼がロンドン最悪の疫病の謎解きができたのは、旺盛な好奇心と広い度量、何より地元を熟知する聖職者で、自分の教区の住民と親密な関係にあったからです。スノーの論文を読んでから改めて、発端患者 index case 探しにとりかかり、ついにその患者(赤ん坊でした)がブロード・ストリート・ポンプの目の前に住んでいたことを発見した上、患者宅の汚水溜めが井戸水に直結していることまで確かめられました。「市民参加型の素人科学の勝利」にほかなりません。ホワイトヘッドがいたからこそ、教区役員会も「ポンプの柄」をはずすことに賛同したのでした。

もう一人の脇役は、何と今日的な人口動態統計の基礎を作った有名人、ウイリアム・ファー W.Farr(1807〜83)です。彼はパリとロンドンで医学の勉強した後、ロンドンで医療に従事してから公衆衛生の諸問題に関心を持ち、(戸籍)登録総監 Registrar-General の事務局に長年勤務しましたが、死亡登録の際に、医師に対して「統計的疾病分類」と呼ぶ死因の記載を義務付けるシステムを作り上げました。現在国際的に死因別死亡率が比較できるのも彼の大きな功績の一つです。スノーは、ファーが発表する「死亡週報」を基にしてコレラの死亡者を割り出し、実地に調査してスポット・マップを作成したのです。しかし、皮肉なことにファーは、自分の発表した資料を活用して飲料水媒介説を提唱したスノー説には簡単には賛成せず、瘴気説の信奉者を続けたのです。飲料水がコレラの原因だということが誰の眼にも明らかになる統計的資料(例えば1858年6月にロンドンを襲った異常な猛暑によってテムズ川の河岸一帯にとてつもない悪臭が立ち込めましたが、ファー自らが集計したこの月の疫病死亡率は全く変わらなかったのです)が揃ってから、ようやくスノー説を認めたのです。疫学の父スノーは、この資料を目にしないまま、同じ6月に脳卒中で死亡しているのです。これまた歴史の皮肉と言わずにおれましょうか。

敵役というには酷なことかもしれませんが、もう一人近代的な衛生行政の開拓者、エドウィン・チャドウィック E.Chadwick(1800〜90)がいます。社会科学者であり、かつ有能な行政官(公衆衛生局長にまで上りつめました)だった彼は、1843年に「大英帝国における労働人口集団の衛生状態に関する報告書」、いわゆるサニタリー・レポートを発表しました(恩師・橋本正巳先生の丁寧な翻訳があります)。行き届いた調査としっかりした統計に基づく実情報告と、それを踏まえた政策の立案が開陳されています。貧困の原因に保健という新たな視角を加えて、公共の扶助よりも公衆の健康 public health こそが貧窮の根本的対策でなければならないとする政治経済的な見解を強く表明したものでした。下水道の整備、伝染病対策、公共の水源監視など、今日の「大きな政府」概念の構築でしたが、誰しも彼の長期的な方向性を否定する者はいません。しかし1854年当時、チャドウィックの短期的な業績を眺めると複雑です。彼は強情なまでに自分の鼻に従って、「あらゆるにおいは病気である。においが強烈であればあるほど重い病気を引き起こす」という自説に固執した頑固な瘴気説論者だったので、スノー説を認めようとはせず、短期的には数千人のロンドン市民をコレラの犠牲にするという、皮肉な結果を生じさせたのでした。

 コレラ禍など過ぎ去った昔話のはずですが、歴史から学ぶことがまだまだ多いことを実感しながら、ジョンソンの著書「感染地図」を一気に読み終えたのでした。

                           (2008年4月日)
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