ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.112 「医療費亡国論」は本当か(その4)
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 「医療費亡国論」以来長年にわたって推進された医療費抑制政策のツケが、深刻な「医師不足」を招いていることは誰の眼にも明らかです。数年前まで、医師の絶対数は足りているがその偏在が問題だと公言していた厚生労働省も、現在では「総数としてはもちろん、特に一部の地域や診療科で深刻な不足を生じている。とりわけ産科、小児科、外科、救急などで顕著だ」(佐藤敏信・医政局指導課長)と正直に認めるに至っています(3月2日付 朝日新聞)。

 この冬のインフルエンザ流行のピークは過ぎたので、臨床現場の小児科医も一息ついておられるのではとご苦労をお察ししています。日常経験する医療のお値段は、国民皆保険制度の下では健康保険の「診療報酬」で決まりますので、「公定価格」と言ってよいでしょう。診療報酬体系では、モノ中心の出来高払い制で、技術料の評価が低いという弱点を持っています。もともと小児科では患者に対する投薬も少なく、採血はもちろん検査もなるべく行わないので、診察1件当りの収入は低くなります。その上、時間外診療が多くて、大人の診療科とは違った苦労が多いのです。

 それもそのはず、小児は症状を自己表現できないので、重要な徴候を見落とすリスクも大きいし、採血の場面など泣き叫ぶ小児を看護師と一緒に3人で押さえ込んで細い静脈に注射針を入れてやっと採血するという苦労が眼に見えるようです。容態の急変もしょっちゅうですし、昔と違って核家族となっているので、育児経験のない若い母親自身がベビーちゃんの病状におろおろしてパニック状態になっているケースもあります。まず母親から落ち着かせないと始まらないのですから、小児科医は大変です。

 自治体ごとに濃淡はありますが、「小児医療の無料化」施策は完全に経済原理を無視していますし、それ以上に受診体制が疎かなままで実施されたのでは、「濫受診」を招くこと必定です。

 近藤喜代太郎・北海道大学名誉教授によると、「小児の時間外患者のうち、9割までは医学的に大したこともなく、電話相談で両親の心配に答えるだけで対応可能」というのが現状だそうです(「医療が悲鳴をあげている あなたの命はどうなるか」西村書店 2007年12月刊)。

 病院経営にとっても収益性が低く、小児科医求人難を承知で、下手に小児科を開設しようものなら、無理な診療体制と過重労働が重なって事故を起こしかねません。そうなると病院が小児科を閉鎖するのも当然の道筋となってしまいます。

 小児科医出身の坂口力・厚生労働大臣(当時)は、今からみれば割合早く、2002年に病院の小児科・産科の医師不足の問題に理解を示され、「小児科・産科若手医師の確保と育成に関する研究班」を立ち上げたのでした。しかしいまだ実効のある施策となって結実してはいないのは残念です。

 産科にも医師不足を招く固有の問題があります。お産は昼夜を問わないので、産科医の勤務は時間が不規則になり、夜間当直が多いのです。少子化社会と言われて久しいので、分娩数は減少しているはずですが、分娩施設が減少しているために、1施設当りの分娩数は逆に増加しています。しかも高齢出産が増えているので、当然ハイリスクの分娩者も増えます。正常分娩の場合、昔は、病院勤務の助産師に任せて、当直医を起こさなくても済むこともあったようですが、ハイリスク分娩が多くなった現在では、当直医は眠れないまま朝を迎え、過重労働を余儀なくされます。深夜勤務が終われば、そのまま帰宅できる体制にはなっていません。勤務明けの「うしろの時間制限」はないのですから、36〜37時間の連続勤務という過重労働がふつうに行われているのです。これでは勉強時間もなくなり、医療の質の低下につながりますし、場合によっては医療事故の原因にもなるのです(岡井崇ら「壊れゆく医師たち」岩波ブックレット 2008年2月刊)。

 産科の場合、医療事故による訴訟が急増して、年間約1000件を数えるに至っています。うまくいった場合と医療事故との間に激しい落差があるだけに訴訟になりやすいのだとも言われます。それも民事訴訟だけではなく、昔と違って刑事訴訟にもなるケースが出ているのが最近の特徴です。典型的な「福島県立大野病院事件」がきっかけとなって、産科医不足に拍車をかけたと言われています。

 その事件というのは、2004年12月に大野病院産婦人科に「一人医長」だった常勤産婦人科医が、帝王切開分娩を行った際に出血により妊婦の患者を死亡させたのです。その経過は「癒着胎盤」の剥離中、多量の出血を生じたため、追加輸血をして血圧上昇を確認後、子宮を摘出したのですが、その後、止血操作の途中に突然の心室細動を起こし、死亡の転帰となります。もともと癒着胎盤は産婦人科医が一生に一度遭遇するかどうかというほど稀な病気((発生頻度は約0.01%、つまり出産1万件に1件です)であり、しかも術前の予測不可能な合併症なのです。

 2006年2月になって、業務上過失致死罪および異状死の届出義務(医師法第21条)違反の疑いで担当医師が逮捕されて福島地方裁判所に起訴され、現在裁判中の事件です(医師は保釈中)(詳細は「ウィキペディア」、「一般向け:子供に語る、福島大野病院事件」などをご参照)。

 もちろん関連する専門学会から抗議の声明が出されたことは言うまでもありません。日本母性保護産婦人科医会は、「このように稀で救命する可能性の低い事例で医師を逮捕するのは、産科医療、殊に地域医療に於ける産科医療を崩壊させかねない」と声明して強く批判しています。産科に限らず、医療の現場では100%安全ということはあり得ません。予測できない不可抗力なのか医療過誤なのかの見極めは大変難しいので、いわゆる「鑑定意見」が割れることはしばしば経験するところです。ようやくスエーデンで実施されている「無過失補償制度」の導入なども検討がはじまったばかりです。

 小児科、産科だけに限って医師不足を招くに至った原因の一端をご披露しました。政府もようやく重い腰を上げて、平成20年度から8年ぶりに診療報酬値上げの改定を決定しました。医療費抑制に限界があることを認めた証拠だと言えましょう。診療報酬改定のポイントは、@ 医師不足対策、勤務医の待遇改善、A 産婦人科の空洞化を防ぐ対策、B 手間のかかる小児医療の待遇充実だと、報じられました(2月14日付 日本経済新聞)。しかし病院勤務医対策として重点配分された総額は、約1500億円ですから、国民医療費の0.5%にも達していません。先日の「自衛艦・漁船衝突事件」の、あのイージス艦が1隻1400億円だと聞くと、比較すること自体、出来ない相談と分かっていながら、ほぼ同じ金額でしかないのかと慨嘆せずにおれません。有力新聞もこぞって、「中途半端に終わった勤務医対策」(読売新聞)、「勤務医の待遇改善に力不足」(日本経済新聞)などと、医師不足解消の道はなお遠いと論評しています。

 しかし、以前は医療費抑制政策を支持し、その徹底を主張していたマスコミが、はっきりと「医療費亡国論」を捨ててこのような姿勢を打ち出していることに明るい希望も感じるのは、二木立・日本福祉大学教授だけではないでしょう。それでも、「開業医は儲けすぎ」(アエラ 2月25日号)とか、このままで国家財政は大丈夫なのかなど、今なお「医療費亡国論」に加担する声も聞かれますので、次回もお付き合いください。

                          (2008年3月12日)
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