ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.109 「医療費亡国論」は本当か(その1)
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 白衣を着ない医者の私は、医療の第一線、臨床現場の経験ゼロです。しかし明治生命の現役時代には医師免許を持つ勤務医(社医)として働いていました。入社したのは1960(昭和35)年で、池田勇人首相の「高度経済成長、所得倍増計画」スタートの年に当ります。翌1961年からは世界に冠たるわが国の「国民皆保険」制度が導入され、経済と歩調を合わせるように医療も高度成長をつづけることになります。私の在職中は、社医のターンオーバーが激しく、その定着には苦心した苦い思い出があります。給与体系が臨床の勤務医と比べて低いことも一因だと考えられていたので、民間給与の実態調査(人事院)などを参考にして、社医の給与案を策定するといった仕事もやりました。親しくしていただいた何人もの方から、臨床の仕事をすればもっと高収入が得られるのに、どうして保険会社に残っているのですか、と真面目に質問されたことも再々でした。もともと予防医学に関心があったことと、統計疫学の研究ができる「医事調査」という仕事が性に合っていたから定年まで勤めあげることができたと思っています。

 当時を振り返ると、医師という売手市場にいたため、同年輩の事務職のサラリーマンよりはちょっとだけ高い給与をもらい、会社からも大事にしてもらったと思っております。短絡して言うなら、医療の高度成長をもたらした医療界のリーダー、強烈な個性の持ち主の武見太郎(1904〜1983)のおかげだったと言えそうです。そうです、「ケンカ太郎」の異名で有名な、日本医師会長として連続13期25年(1957〜1982年)もの長期間、君臨した「武見天皇」とも呼ばれた人物です。彼は、医療政策の立案者である厚生省官僚と徹底的な対決姿勢を貫いて、医師がそれぞれの長い臨床経験によって「芸」として高めた医療をだれにも拘束されることなく、各々の患者のニーズに応じて提供できる体制(「プロフェッションとしての自由」)の構築を目標としたのです。独特の医療哲学と政治力に物を言わせて、自由主義経済下における開業医の独立と利益擁護のため奮闘されたので、武見会長の率いる日本医師会は圧力団体の代表だと言われながらも、臨床現場の大半の医師から熱烈な支持を得たのです。

 武見会長お一人だけの影響ではないのですが、バブル経済が崩壊する頃までに、わが国の医療体制は、薬づけ、検査づけ、さらには不正請求などの批判はあるものの、国際的には高い評価を受けるに足る実績を上げてきました(WHOの「ワールド・ヘルス・レポート2000」によると、医療の総合達成度の評価は世界第1位です)。

 つまり、@平均寿命、乳児死亡率などの保健指標は世界最高水準に達しています。A国民全員が公的医療保険に加入している国民皆保険制度によって、いつでも、どこでも、平等に、合理的な一律料金で受診することができます。B医師側も、基本的に自由診療ができて、出来高払い制度に基づいて診療内容に応じて収入が増えるようになっています。C一方、毎年歯止めもなく高騰し続けていると一般に信じられている医療費も、実は世界的には低い水準にとどまっています。むしろ、これと対照的な国がアメリカで、真剣に日本の医療体制から学ぶべきだとする研究者がいるくらいですし、今年行われるアメリカ大統領選挙でも、公的医療保険の導入問題が争点の一つになっているほどです。

 ところが、今世紀に入ってからにわかに、「医療危機」とか「医療崩壊」という言葉を日常的に聞くようになってきました。いわく、医療過誤、医療事故、医療訴訟、医療裁判、救急患者のたらい回し、分娩取り扱い中止、お産難民、小児科の閉鎖、病院の廃院、医師不足、医師の過労死・自殺、医療格差、医療財政の破綻、「立ち去り型サボタージュ」などなど、またかというほど「医療が悲鳴をあげている」ニュースの洪水です。新年早々の総合雑誌もこぞって医療崩壊問題を特集しているのが目立ちます。タイトルだけ並べてみましょう。「医療崩壊の行方」(中央公論1月号)、「医療崩壊をくい止める」(世界2月号)、「大増税が医療・年金を破壊する」(文藝春秋2月号)といった具合です。白衣を着ない医者の私も漫然と見過ごすことが出来ません。それもそのはず、私自身は臨床現場にタッチしなかったのですが、阪大・大学院、公衆衛生院時代に薫陶を受けた恩師は、故人となられましたが、いずれも医療制度問題の専門家だった(関悌四郎、朝倉新太郎、曽田長宗、橋本正巳の諸先生)というご縁もあり、並々ならぬ関心を持ち続けていたから当然とも言えます。

 これから数回にわたって、医療崩壊の現状を検証してみたいと思います。まず、医療崩壊の出発点は厚生省(当時)の医療費抑制政策にあるというのが多くの専門家の一致した見解です。

 武見・元会長が亡くなられたのは1983年の暮れのことです。同じ年の2月に、厚生省・吉村仁保険局長(当時)が「社会保険旬報」に寄稿された「医療費をめぐる情勢と対応に関する私の考え方」と題するの論文のなかで端的にこの政策の基本を提示しています。まったくの偶然とは思えないグッドタイミングだと指摘するのは、済生会栗橋病院副院長で、NPO医療制度研究会・代表理事の現役外科医・本田宏医師です。なぜなら、一般には「医療費亡国論」と呼ばれる吉村論文が発表されて以来、四半世紀にわたってこの論文を金科玉条のようにしてわが国の医療行政政策が推進されてきたからです。

 この論文の主張を本田医師は次の3点に要約しています。

@ 「医療費亡国論」:このまま租税・社会保障負担が増大すれば、日本社会の活力が失われる

A 「医療費効率逓減論」:治療中心の医療より、予防・健康管理・生活指導などに重点を置いたほうが効率的

B 「医療費需給過剰論」:供給は一県一医大政策もあって近い将来、医師過剰が憂えられ、病床数も世界一、高額医療機器導入数も世界的に高い

 もちろん医療費抑制は吉村論文より遥か以前から一貫して続けられた厚生省の政策ですが、吉村氏は、「医療費の現状を正すためには鬼にも蛇にもなる」と言い切って、日本医師会初め、自民党内部や野党からの猛反対にも屈することなく、それまで聖域化されていた医師優遇税制の改革にメスを入れたり、無料だった健康保険の被保険者本人(サラリーマン)の医療費2割自己負担を導入するなど、健康保険制度創設以来ともいえる大改革を実現させます。彼は厚生省事務次官まで上り詰めたのですが、退官した1986年に56歳の若さで死去されました。病身を押して健保改革に身を賭したホンモノ官僚の壮絶な死だったと評されています。その政策が破綻を来たして、今日の医療崩壊を齎したと諸悪の根源だとされているのです。次回以降にもっと詳細に吟味してまいりましょう。

 なお1987年に、ご遺族の申し出によって、将来の厚生政策の企画立案をするのに基盤となるべき卓越した調査研究に対して毎年助成することを目的に、「吉村記念厚生政策研究助成基金」(通称・吉村賞)が発足し、2003年まで続きますが、その受賞者には、現在も医療経済、医療政策分野で活躍する多くの第一線研究者が名を連ねています。さらに蛇足ですが、私と一緒に「明治生命体重表」の研究に携わってくれた田村誠・国際医療大学准教授(当時)も受賞者(1999年)のお一人でした。

<参考文献>

 本田宏:「誰が日本の医療を殺すのか 「医療崩壊」の知られざる真実」
      羊泉社 2007年9月

 池上直己、キャンベルJC:「日本の医療 統制とバランス感覚」
      中央公論社
 1996年8月

                              (2008年1月30日) 


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