ドクター塚本  白衣を着ない医者のひとり言
No.108 痛みが消えた!(その2)
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 私の痛み体験は、どうやら「慢性痛症」と言ってもよいのだろうと思っています。何しろ半年どころか痛みは年余にわたっていますし、痛みに相応する場所の炎症が消退してからも痛みは持続していました。また痛みに対する不安感もかなり強いものでした。その不安を解消するのに役立ったのではないかと、今になって思い当たることが2つあります。

 1つは、昨年医学校卒後50周年の同期会に出席した際、整形外科専門医の同級生に、アキレス腱周囲炎の治療のことを尋ねてみました。彼曰く、「お前のような症例は何例も経験しているが、やはり痛みの極期にはステロイド剤の注入がドラマティックに有効だよ」と明言してくれました。実は通院していた病院の整形外科医からも、ボルタレンで駄目ならステロイドを使ってみようか、と言われたことがあります。その時には結局、ステロイドのお世話にはならず仕舞いでしたが、同級生の言葉ですっかり気持ちが楽になりました。単純と言えばそれまでですが、痛みが再発してもステロイド注入があれば大丈夫だと安心したに違いありません。

 もう1つは、運動嫌いを返上して、昨秋から水泳教室に通い始めたのです。泳ぎの方は一向に上達しないままですが、水泳のせいで何とアキレス腱を庇って悪化させていた腰痛の方も楽になりました。

 前回ご説明した最新の「痛み学」に照らしてみると、私の痛み体験の不思議も少しは解明されたのではないかと思います。

 まず「ポリモダール受容器」は炎症と切っても切れない関係にあります。炎症を起こした組織で産生される化学的物質が刺激となって、この受容器の興奮を何倍にも大きくします。同時に、炎症に伴う腫脹、発熱、発赤、いずれもポリモダール受容器の興奮を高めるように働き、その結果が痛みとして感じられるのです。また、痛み刺激を受け取って信号を発信するだけでなく、「神経ペプチッド」という物質を放出する働きも持つポリモダール受容器は、周囲の組織に炎症を広げる「効果器」の役割も果たして、炎症の4徴候はますます拡大して行くことになります。つまり、痛み刺激を受け取って伝える働きだけでなく、周囲の組織にもいろいろな影響を与える効果器の働きも兼業している受容器ですから、専門分化されていない原始的な特徴を備えていて、可塑的変化による歪みも生じます。ここに痛みの複雑さがあり、慢性痛症のような病気を起こす源にもなっているのです。

 痛覚受容器のなかでも大変重要なポリモダール受容器についての世界的な第一人者である、熊沢孝朗・名古屋大学名誉教授は、わが国の痛みの医療は遅れていると指摘してつぎのように言います。日本の医療従事者の多くは、まだ障害部位が存在しなくても、また治った後にも痛みだけが続く「慢性痛症」のことをよく理解していません。痛みとその治療についての研究が進歩して、考え方が変ってきていることを、医者はもちろん患者側も含めた社会全体に理解が広まるように、社会的な取り組みが必要になっています(「痛みを知る」)。

 そして、不幸にして慢性痛症になった場合には、少なくとも次の3点の理解が重要です。

@   現在のところ、決定的な「治療薬」はないこと。

A   痛みよりも日常生活を取り戻すことを目的にした治療が必要、そのためにリハビリ、マッサージなどの理学療法や鍼灸など代替医療も活用する。

B   精神的ケアも欠かせない。

私のケースでは、専門医の同級生からヒントをもらって、痛み再発の不安が解消したことが精神的ケアになっているように思います。また、マッサージ、鍼灸などを試してみたことも日常生活に戻すために意味があったと考えています。

痛みが燃え盛って長く持続すると、可塑的な変化のために神経系に歪みを起こすことが慢性痛症の原因となるので、ごく当たり前のことかもしれませんが、燃え盛らせないでその前にしっかりと痛みを抑え込むことが大切です。つまり慢性痛症への移行を防ぐことが重要です。痛みを長引かせないための処置として、たとえば手術前からモルヒネを使うような「先取り鎮痛」が有効だという研究もあるそうです。

つぎに、筋肉や関節など運動器の痛みも慢性痛症と深い関係にあります。このことは筋肉の痛みが皮膚からの痛みよりも中枢神経系に及ぼす影響が大きいということと関連しているからだと言われています。したがって、同程度の痛みでも筋肉オリジンの痛みの方が可塑的変化を起こす可能性が高くなり、より慢性痛症に結びつきやすいと考えられています。

運動器に障害があるときには、「傷みがあるようなら、しばらく安静にしておくべきだ」というのが世間の常識になっているようです。実は運動できるのは骨格筋のおかげですが、この中に「筋紡錘」という筋繊維の収縮速度や程度を測定する感覚器があって、運動の調節に関係しています。詳細な調節機構は省略しますが、他の部位からの痛みの信号が筋紡錘に伝達されると骨格筋の収縮も起こります。長く収縮したままの状態が続くと関節にも影響が及んで動かし難くなります。動かしづらい関節を無理に動かそうとすると大きな痛みが生じます。痛いから動かさない、動かさないからまた痛む、というまさに悪循環を起こしてしまいます。

私の水泳教室もこの悪循環を断ち切ることに役立ったのかもしれないと思っています。

アメリカでは、2001年からの10年間を「痛みの10年」とするという宣言を2000年に議会が採択(クリントン大統領が(当時)が署名)しましたが、このことをご存知だったでしょうか。痛みへの対処法が不適切で、医者から医者へ渡り歩くいわゆる「ドクターショッピング」の実態が明らかになり、医療費の無駄遣いをはじめ、痛みに対する医師への再教育など社会的な対策が必要となったからです。

しかし、その10年もすでに終りに近づこうとしているのに、残念ながら日本では痛みに対処する社会的な活動は皆無と言ってもよいほどですし、「痛みの医療」は国際的に大きく立ち遅れています。先にご紹介した熊沢名誉教授は、その原因として、@「痛み」への理解不足、A医療教育の欠陥、B医療社会の縦割り性、C診療報酬制度の欠陥などを挙げています。

そして彼は、「学際的痛みセンター」の早急な設立こそ急務だと提唱されています。このセンターでは、複数の専門家が集まって個々の患者に対してオーダーメイドの治療ができるよう構想されています。センターにおける治療側の目標としては、@身体機能を最適レベルにまで回復させる、A痛みを減らす、または取り去る、B習慣的な薬の服用を減らす、またはなくす、C医療機関に頼らず生活できる、D生活の質QOLを改善する、の5点が掲げられています。

私よりずっと酷い痛みに苦しんでいる方々も多いはずです。熊沢先生たちの構想が一日も早く実を結ぶよう祈らないではおれません。

<参考文献>

 熊沢 孝朗:「痛みを知る」、東方出版(株)、2007年12月刊
 植田 弘師・戸田一雄:「やさしい痛み学」、ブレーン出版(株)、2007年3月刊

                              (2008年1月16日)


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