平成24年 1月22日
「シニアの東都見聞録(7)」
津田塾大学小平キャンパスの建物
…武蔵野の林に建つ清楚な本館…
                   
“和楽備の一閑人”井出昭一
1.プロローグ
 建物巡りを続けているうちに大学のキャンパス、その中でも東京女子大とか清泉女子大、聖心女子大などの女子大学に名建築が残されていることが判りました。通常は男子禁制で安易に“入門”することはできませんが、大学祭などの一般開放時には、男の人も歓迎されて堂々と入場できます。
 昨年の夏、東村山の国宝・正福寺地蔵堂を訪ねた帰途、急に思い出して小平の津田塾大学に立ち寄ってみたところ、想定通り、門前払い。しかし、11月11~13日の津田塾祭なら誰でも自由に構内へ入ることができると守衛さんから教えていただき、最終日の13日に再度挑戦し、念願の“入門”が果たせました。この日はさわやかな晴天に恵まれ、来訪者でキャンパスは混雑していましたが、人物を避けてなんとか建物だけの写真も撮ることもでき、ようやく思いがかなった一日でした。

2.「ハーツホン・ホール」と呼ばれる本館
 私の狙いは大学のシンボルとなっている本館。 これは鉄筋コンクリート造り3階、一部4階建てで、佐藤功一が設計しました。いわゆる帝冠様式をモチーフとした瓦葺きで、コンクリート造りながら法隆寺に見られる平行垂木(へいこうたるき)などの日本的なデザインを取り込み、左右が対称で窓枠もすっきりとした感じを与える外観です。赤味がかった瓦と調和した外壁の色も女子大学らしい柔らかな雰囲気を演出していました。
 正面玄関の車寄せの柱も、太い柱ではなく左右とも三本の細い柱で支えられていて均整のとれた優しさを感じさせます。さらに、洒落た子窓を持つ玄関脇、整然とした廊下、階段室など、本館の内外を心ゆくまで観察することができました。
 この津田塾大の本館は、キャンパスが麹町から現在の小平に移転した昭和6年(1931年)に建てられ、創立者の津田梅子の留学時代からの親友で建設資金募集に尽力されたアナ・コープ・ハーツホン(Anna C. Hartshorne)にちなんで「ハーツホン・ホール」と呼ばれ、現在では東京都の歴史的建造物に選定されています。





3.設計者は佐藤功一
 津田塾大の本館「ハーツホン・ホール」を設計したのは佐藤功一です。佐藤功一の代表作としてすぐに思い付くのは、重文に指定された早稲田大学大隈記念講堂(1927年)や日比谷公会堂・市政会館(1929年)ですが、この両者は垂直の直線が強調された男性的なデザインであるのに対し津田塾の本館は繊細で女子大学にふさわしく女性的です。
 佐藤功一は1903年(明治36年)東京帝国大学工学部を卒業後、恩師である辰野金吾の推薦により1909年(明治42年)から早稲田大学で建築学科創設に携わり、引き続いて主任教授として後輩の指導に当たりました。東京以外では、岩手県公会堂(1927年)、群馬県庁舎(1928年)、米子市庁舎(1930年)、滋賀県庁舎(1939年)など官公庁の設計を数多く手掛けています。こうした設計活動と同時に日本女子大学教授として女子の建築教育にも力を注ぎ、1941年(昭和6年)に逝去されました。
 日本女子大では田辺淳吉が設計した成瀬記念講堂(旧豊明図書館兼講堂、明治39年竣工)が、明治期の学校建築の貴重な遺産として知られていますが、佐藤功一も樟溪館(旧日本女子大予科新館、大正15年竣工)を設計しています。これは増築・改修工事が何回か行われましたが、竣工当時の面影が残されているといわれています。
4.キャンパス内の津田梅子の墓所
 明治33年(1900年)、私立としてはわが国最初の女子高等教育機関として東京麹町に津田塾大学の前身の「女子英学塾」が創立されました。津田梅子(1871~1929)は幼くしてアメリカに渡り、帰国後、日本での女子教育の必要性を痛感して設立した「女子英学塾」は、同年設立の東京女子医大とともに110年以上の歴史を有する私立の女子高等教育機関としての草分け的存在です。
 キャンパス内に津田梅子の墓所があるというので訪ねてみました。場所は正門から見ると左前方(キャンパスの東北の角)のグランドやテニスコートの近くで、墓碑は桜の並木の先に建っていました。津田梅子は小平キャンパスの完成を見届けることなく亡くなりましたが、この地に眠りたいとの遺書を残していたため、当時の東京府と折衝の末ようやく墓所を許可されたという経緯があるようです。津田塾祭で大勢の墓参があるかと思いましたが訪ねる人はなく、四角のシンプルな墓碑前にはきれいな花だけが添えられていました。
5.丹下健三が設計した図書館
 本館の斜め向かいに建っている近代的な「星野あい記念図書館」は、第二代塾長(初代学長)星野あいを記念して丹下健三が設計し、昭和29年(1954年)に建てられました。斜めの筋かいが大胆なデザインだと思ったところ、これは耐震補強のため、どうやら後になって付けられたようです。
 本館以外は近代的な建物の並ぶキャンパス内で、ひとつだけ雰囲気の異なる木造の建物が林の中に建っていました。これは百周年記念事業のひとつとして1930年の建設当初の状況に再現された「3号館」で、ゲストハウスとして外国人の客員教授や研究者の滞在施設として使用されているとのことです。

6.プロローグ…おかしな茶道体験
 普段は入れない女子大ですから、この際、構内建物すべてを見学しようと、慣れないキャンパスを独りで効率悪く右往左往しているうちに、喉が渇いてきました。そのとき運良く目に止まったのが「津田塾祭添釜茶会」の案内看板です。本館裏手の6号館で茶道部の茶会が開かれているというので、駆けつけて最終日の最終席にギリギリ滑り込むことができました。
 案内された寄付でひとりポツンと待っていたところ、茶道部の女性部員(女子大ですから当然女性です)が、「前の席が始まったばかりで、時間がかかりますから、その間にお茶を点てる体験をしてみませんか?」との嬉しいお誘いがあり、私は即OK。風炉釜の置かれたところに案内されると、すぐに“Tsuda”という彫りのある銘々皿にお菓子が出され、茶碗、棗、茶杓、茶荃がセットされたお盆が用意されてきました。

 私は毎日のように自服で抹茶を飲んでいるので、本当の狙いはお茶を点てる体験ではなく、喉を潤すことであることを正直に白状し、さらに大服にすることまでお願いしました。女子部員はなんて図々しい老人だと思ったでしょうが快く了解していただきました。早速、“手慣れた左手”で大服のお茶をす早く点てると、女性部員はビックリ顔(?)
 しばらくして、最後の茶席に入り、今度は”古稀老人”も末席近くに席を取っておとなしく神妙にしていました。この席でもお菓子と二服目のお茶を飲んで喉の渇きをいやしたばかりか、休息までさせていただき大満足の津田塾祭の一日でした。
以上
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