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平成23年10月25日
「シニアの東都見聞録(6)」

都内で初めて国宝指定の建物…正福寺地蔵堂…

“和楽備の一閑人”井出昭一
1.プロローグ
 前回からかなり日が開いてしまいました。忘れていたわけでも、怠けていたわけでもありません。“和楽備の一閑人”が、“閑人”ではなく“忙人”となっていたからです。世に「流水は濁らず 忙人は老いず」といわれるように、忙人となって若さを取り戻した古稀老人が、パソコンの片隅に追いやっていた「正福寺地蔵堂」のショートカットを久しぶりにクリックして呼び出し、仕掛品を仕上げました。
 これまでに、年1日公開の建物3件を取り上げてきました。このうち三田演説館は正確には春秋年2日公開です。語呂合わせではありませんが、今回紹介するのは、年に3回のみ仏堂の内部を公開する国宝の正福寺地蔵堂です。
2.正福寺を二度も訪問(7月22日と8月8日)
 私が初めて正福寺を訪ねたのは、8年ほど前の平成15年(2003年)11月でした。定年後に私が所属しているグループ“ダイヤネット”の定例行事のひとつである古寺巡り「多摩88カ所巡り」の最終回(第8回)のときです。この日の目的は多摩札所の第38番から第42番の4ケ寺の参拝。正福寺は国宝でありながら札所ではないため“番外編”として付録扱いでした。当日は晩秋の夕方、しかも曇っていました。寺院建築に精通している世話役の詳しい説明を拝聴しているうちに正福寺の魅力に目覚め、いずれ日を改めて再度訪問しなければと思いつつ立ち去りました。
 念願だった正福寺を今年の猛暑のなか2回も訪ねることになりました。
 1回目は7月22日。新宿の朝日カルチャーセンターで金曜日“恒例”の真向法体操教室を終えた後、あまりの好天に誘われて急に正福寺行きを決めました。昼食後、新宿駅で中央線に飛び乗ったところ、幸いにもこれが“特別快速”。国分寺駅まで瞬く間に到着し、西武国分寺線に乗り換えると直ちに発車。遠いとところだと敬遠していた東村山駅にアッと云う間に着いてしまいました。
 電車の中で携行していた常用の地図(昭文社『街っぷる 首都圏』)を取り出して正福寺の場所を確認したところ、駅からほぼ1km弱。もっと詳しい資料がないのかと駅前広場を見渡しても、観光案内所らしきものは見当たりません。正福寺と東村山市は本当に控え目なのでしょうか。よそでは重文の建物でも案内板や道順の標識があるのに、長い間、東京ではただ一つの国宝建築という“観光の超目玉商品”を持っていながら、それを紹介するものが無いというのは不思議なことです。
 道順を尋ねる人もいないまま、自前の地図を頼りにして目的の正福寺に到着できました。
日差しの強い真夏の午後とあって、訪問者は私のみ。この国宝建築をただひとり占めにしてゆっくり撮影できると思って、デジカメを取り出したところ、何と“電池切れ”の表示。一瞬、ドキッとしましたが、慎重派の“和楽備の一閑人”は、すかさず予備の電池を装填して撮影に取り掛かりました。建物を撮影するには、人影がないのがベストですが、この日はまさに建物の外観を写すには最良の日寄りでした。
 帰宅後、念のためインターネットで調べたところ、内部公開は年に3回だけ、8月8日(施餓鬼供養)、9月24日(法要)、11月3日(文化財ウィーク地蔵祭り)ということが判りました。9月24日と11月3日は既に予定が入っていて都合がつきませんので、結局、8月8日に再度訪問することにしました。この日は前回とは打って変って、正福寺には多数の人が押し寄せて、堂内はラッシュアワーの電車並み。前回は人影のない外観を撮影、この日は公開されていた内部を撮影ということで、二度の訪問が決して無駄ではなかったということになりました。

3.円覚寺舎利殿と正福寺地蔵堂は“瓜ふたつ”
 ところで、金剛山正福寺とは、東京都東村山市に建つ臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、その地蔵堂は1952年3月に国宝に指定されました。一昨年(2009年)12月、迎賓館赤坂離宮が国宝に指定されて東京都内の国宝建築は2件となりましたが、それまで約60年の長い間、正福寺地蔵堂は東京で唯一の国宝建築でした。関東一円で国宝に指定されている建物は、日光の東照宮の陽明門や拝殿など一連の建物を除けば、鎌倉の円覚寺舎利殿とこの正福寺地蔵堂のみですから、数が多い重要文化財と比較していかに国宝建築が希少だということが判ります。




 円覚寺舎利殿と正福寺地蔵堂は、規模・形式とも良く似ていて外観は“瓜ふたつ”です。ところがこの国宝の両者は対照的です。“全国区”で知れ渡っている円覚寺舎利殿は通常は非公開。公開されるのは正月三が日と11月3日前後で、それも外観のみ公開というに対し、“東京地方区”の正福寺地蔵堂は極めて開放的で境内への出入りはいつでも自由です。
 したがって、国宝“円覚寺舎利殿”の建物の細部を見学したい方は正福寺地蔵堂を訪れることをお勧めします。円覚寺は立ち入り禁止の標識のある門の外から遠くの舎利殿を望むだけですが、正福寺地蔵堂は建物に近づいていつでも無料で観察することができるからです。京都では、国宝や重要文化財で指定されていない寺院の境内に入るために、拝観料が必要だったり門前に飲食や土産物の店が軒を連ねているところもありますが、正福寺では案内看板も店舗もなく、一見する限りひっそりとした田舎の古寺といったところです。
 周囲に邪魔物がなく、無料で美しい仏堂を拝見できることは誠にありがたいことですが、建物について知ろうと思っても、解説の冊子はおろか、案内チラシすらなく、手に入るのは東京都が文化財ウィークで作成している簡単なハガキ大の1枚のみといった状態です。こうしたことに対しても、正福寺は極めて控え目です。
 しかし、8月8日に地蔵堂内の公開時に訪問して良かったことは、ボランティアの詳しい説明を拝聴できたことです。7月22日に見落としていた“宝”の部分をボランティアの方が補充して解説し、続けて二度の訪問したことが決して無駄ではなかったと納得した次第です。
4.禅宗様仏殿の貴重な“建築標本”
 室町時代の応永14年(1407年)に建立されたこの地蔵堂は、禅宗様仏殿の特徴を完備した代表的建築で、鎌倉の円覚寺舎利殿と双璧をなす貴重な遺構だといわれています。



 禅宗様の典型的な“建築標本”を目の当たりにして、ボランティアが説明される寺院建築の専門用語の数々。入母屋造り、先端部が反り上がった屋根、杮葺き(こけらぶき…薄く削った細長い板を重ねた葺き方…)などから始まって、一重裳階(ひとえもこし)付き、扇垂木(おおぎたるき…軒裏の垂木を扇形に配する形式…隅に向かって放射状に配列された扇のような形のもの)、尾垂木(おだるき)、鏡天井(中央部の一間のみ板を張ったもの)、花頭窓(かとうまど…上部がアーチ状にカーブした窓)、桟唐戸(さんからど…縦横に桟をはめた扉)、波欄間(なみらんま)、柱間の組物は三手先(みてさき)などなど。古稀を過ぎて硬直化した脳には容易に入って行きません。一度では入り切らず、さらに再度聴き直してようやく“禅宗様”なるものの一端をなんとか頭に詰め込んだという有り様でした。
 堂内の組物(屋根の出を支える構造材)が織りなす精緻な美しさばかりに気を取られていましたが、地蔵堂の内部には本尊として地蔵菩薩像のほか、多数の地蔵菩薩の小像(千体菩薩)が安置されています。
5.禅宗様仏堂…余話…
 正福寺にはこの希少な国宝建築に関する資料がなかったため、インターネットで“禅宗様”などに関して検索してみました。これを契機に、枯れかけた古稀老人の頭の中にまたまた新しいことばが矢継ぎ早に入り込んできました。
 その中で判明したことは、正福寺地蔵堂と同じ禅宗様建築で国宝指定の仏堂(塔、門、経蔵、方丈などは除く)はわずか9件のみということです。鎌倉の円覚寺舎利殿のほか、清白寺仏殿(臨済宗妙心寺派、山梨県山梨市)、永保寺の開山堂・観音堂(岐阜県多治見市)、善福院釈迦堂(天台宗、和歌山県海南市)、不動院金堂(真言宗別格本山、広島県広島市)、功山寺仏殿(曹洞宗、山口県下関市)、瑞龍寺仏殿(曹洞宗、富山県高岡市)。これらは関東以西の各地に点在していて、禅宗寺院が多い京都で禅宗様の国宝仏堂が皆無というのは意外ですが、これは応仁の乱により当時のものがことごとく焼失したため、禅宗寺院のほとんどが室町時代以降に再建されたという事情によるといわれています。
 私自身が驚いたことは9件のうち私は既に5件を“見ていた”ということです。多治見の永保寺を訪ねたのは、20年ほど前の年末。土岐に窯を持つ陶芸家を訪問した際に「近くに国宝の素晴らしいお寺があります」といって突然案内されたのが、臨済宗南禅寺派の名刹“虎渓山永保寺”でした。屋根の端が反り上がっている開山堂と観音堂の姿が印象的で、当時の35ミリフィルムで何枚かの写真を撮った記憶が残っていました。わが家の書棚の片隅に押し込められて未整理のままのアルバム類を探してみましたが、自称“宝の山”から目指す写真はついに見つけ出すことはできませんでした。
 しかし、鎌倉の円覚寺と高岡の瑞龍寺の写真はすぐに見つかりました。デジカメとパソコンの威力です。2004年10月に福井県の芦原温泉で開かれた真向法研修全国大会に参加した際に、終了後、高岡市の瑞龍寺(曹洞宗)を訪問し、地元出身の知人に案内役を務めていただきました。総門、山門、仏殿、法堂が一直線に並び、庫裏、鐘楼、僧堂などが回廊によって整然と配置された伽藍には、京都以外にもこれ程の寺院が存在したのかと感激したことをはっきりと覚えていました。CDに収録されていた瑞龍寺の写真をパソコンで拡大して見ると懐かしい記憶がよみがえってきました。

 鎌倉の円覚寺(臨済宗円覚寺派大本山)はこれまでに何度も訪ねていますが、2004年11月の訪問は格別でした。というのは、当日、鎌倉散策に参加したメンバーに円覚寺の檀徒がおられ、その方の特段の配慮により通常は立ち入ることができない舎利殿まで近寄って観察できたからです。そのときは、正福寺と“兄弟”建物だとは全く意識しませんでしたが、写真を見比べてみると、両者はまさに“瓜ふたつ”ということが判りました。また、高岡と鎌倉という遠隔地の名刹を続けて見ていたことを今になって気づいた次第です。
 日本の伝統建築の美しさの真髄は屋根の形のバランスにあるといわれていますが、これらの禅宗様仏堂の屋根の反りの美しさを改めて認識することになりました。とくに正福寺地蔵堂が最も美しく見えるのは西側墓地の中程からの眺めだといわれています。美人と同様、禅宗様建築を見るときにもチャームポイントを外してはならないことが判りました。
 このように、この夏の東村山の二回の訪問は、新たなことを知ったと同時に忘れていた記憶を呼び起こしてくれた実りあるものでした。


以上

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