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平成23年7月5日
「シニアの東都見聞録(3)」

年一日の公開建物の見聞録(その2)
…大磯 安田善次郎別邸(寿楽庵)…

井出昭一

1.プロローグ…見学の経緯
 「年一日の公開建物の見聞録」(その2)は大磯の安田善次郎別邸です。5月22日に初めて訪ねましたが、その経緯は次のとおりです。
 東日本大震災の後4月にかけて、私は美術館・建物探訪を自粛していため、欲求不満でストレスが溜まっていました。ゴールデンウィークの5月4日はさわやかな晴天でした。予定がなにも入っていなかったのを幸いに、急に思い立って大磯へ行くことにしました。大磯には明治の元老、華族、財閥、文化人の別荘などが集中しているので、一度は訪ねてみたいと思っていた所でした。
 東京駅発8時ごろの電車に乗ると地震の“余波”が続いているためか乗客は1車両に数人のみ。向かい合う4人席を独り占めにして足を伸ばし、1時間余りを活用して“大磯名所案内”の予習をすることができました。
 大磯駅近くの観光案内所で市内の関係資料をいただいた時に「安田善次郎邸は非公開で残念です」とつぶやいたところ、「今年は5月22日が年1回の公開日で、そのときは邸内の見学ができますよ」との貴重な情報を得たため、この日は安田邸を除いた旧三井高棟邸跡の城山公園、島崎藤村旧居、鴫立庵などの大磯名所巡りをしました。
 帰宅後、インターネットで検索したところ、旧安田邸は、現在、安田不動産株式会社が所有・管理し、通常は非公開ですが、年に一日だけ大磯町と神奈川県と大磯町観光協会が協同で一般公開するとのことでした。ことしの公開は5月22日(日)に午前2回、午後1回実施し、各回の定員は150名。早速、第2回目の“11時の部”に参加を申し込んだところ運よく許可され、5月は2度も“大磯詣”をすることになりました。
 楽しみにしていた5月22日の天気予報は“曇りのち雨”。ところが朝は薄日が差していたので早めに出かけて安田邸付近でも散策しようと考えて9時には大磯駅に着きました。
 駅から安田邸への道順は、要所毎に案内表示があって迷うことなく、目的の安田邸に到着。入口付近には仮設のテントが張られ、大勢のボランティアが受付の設営の準備中でした。11時まで待つでは時間があり過ぎるので、第1回目の“10時の部”に変更を申し出たところ、幸いにもキャンセルがあったとのことで、最初の組に編入して見学することができました。
安田善次郎大磯別邸(寿楽園)
 見学は20人が1グループになって、グループ担当のボランティアの指示で行動し、決められた案内ポイントに誘導されると、そこには別のボランティアが待機していて指定ポイントについて説明をするという方法が採られ効率良く庭園を回ることができました。
 安田善次郎は富山の同郷人で浅野セメントの創業者・浅野総一郎から大正4年に大磯のこの地を譲り受け別邸としましたが、建物は大正4年9月焼失したため大正6年新たに別邸を建築しました。背後の王城山に及ぶ合計1万300坪の土地を所有し、善次郎はここで余生を楽しんでいましたが、大正10年9月28日、暴漢に襲われ82歳の生涯を閉じました。昭和5年夫人が逝去された後、この別荘(母屋)は安田善次郎記念館として保存され、経蔵、持仏堂が新たに建設されています。
 屋根の曲線が美しい唐破風平唐門から安田邸に入ります。この門は、法隆寺聖霊院厨子を模して大磯在住の日本画家・安田靫彦が設計した門だとの説明を聞いて驚きました。安田靫彦の日本画は数多く見てきましたが、建築設計にまで手を広げていたとは初耳だったからです。説明がなければ見過ごしてしまいそうですが、簡素な白木がとても美しく日本画の巨匠の細かい配慮の跡がうかがわれる門です。
 植込みのアプローチの先が母屋です。大正6年に建てられた母屋は寄せ棟造浅瓦葺きの純和風平屋建てで、外観と間取りは創建時のまま残されているといわれています。床、柱、天井などは凝った建材が使われて、特に板張りの応接間の天井は、網代天井で竹の皮を編み込んで造られているそうでが、内部は非公開のため玄関前に掲げられている写真から想像するだけです。増築時に建てられた茶室は母屋の南西に位置しています。近代数寄者の先駆者のひとり“松翁”の茶室をひと目拝見したかったのですが残念でした。
 平唐門を入って右側に建つ経蔵は、正倉院を模した校倉造りで木組も美しく善次郎ゆかりの品を収蔵しているといわれ、扉は固く閉ざされていました。設計は平唐門と同じ安田靫彦です。



 安田靫彦設計の建物はさらにもう1棟あります。それは当初建てられた別荘の客間のあった場所に二代目善次郎が父善次郎夫妻の供養のため建てた持仏堂で、こちらは正面の扉と蔀戸が開放されていて内部の様子を見学できました。大正10年9月28日暴漢に襲われた善次郎は、庭先の敷石の上で息を引き取り、翁の遺志で王城山中腹に分葬されていた墓碑を終焉の場である持仏堂横に改葬され、昭和5年に逝去された夫人ともに五輪塔の下に眠っています。
 なお、安田善次郎の墓は護国寺にもあります。大隈重信、山縣有朋、益田孝、大倉喜八郎など名士の墓が多い護国寺にあっても、安田善次郎とその一族の墓は規模も大きいうえに周りを塀で囲んでいたためひと際目立つ存在です。鐘楼の近くにあり中に入ることはできませんので、塀の隙間から窺うだけです。


 建物以外で最も目立つのは石造十三重塔です。これは備前の藤原成親卿の墓から移設したもので、昭和9年に国の重要美術品に指定されています。ボランティアの説明によると、四角の台座の丸い窪みは雨水が垂れてできたものだといわれ、歴史の古さを立証するも紛れもない証拠だと驚いた次第です。
 石碑の中では寿楽園石碑に惹かれました。碑文には善次郎の歌「おかまえは申さず来たりたまえかし 日なが遊ぶも 客のまにまに」が刻まれています。この碑は大正7年、別荘の寿楽園が完成した時に、町の人々の来訪を歓迎して裏の王城山への登り口に立てられていたといわれています。原三溪が三溪園を市民に公開した際に私邸入口の門柱に“遊覧御随意”との看板を掲げ“衆とともに楽しむ”ことを実践したと同様に、碑文は善次郎の心の広さを表したものといえます。
 庭園の植え込みの中に安田善次郎大理石像が立っています。その作者が北村四海だと聞いてびっくりしました。というのは、旧明治生命が所蔵していた社祖・阿部泰蔵の大理石の胸像も北村四海が制作しているからです。
 北村四海(1871〜1927)は、大理石彫刻の第一人者で、明治28年(1895)日本美術協会展で出品し1等賞を受けた木彫の「神武天皇像」が安田善次郎の眼に止まり、以後、善次郎は四海を終生にわたって経済的支援をされ、安田邸の応接間には四海の作品がいつも飾られていたといわれています。四海の代表作は明治35年に制作された「イヴ」で、現在は東京国立近代美術館の所蔵となっています。
 邸内の建物、石碑、石像などについては、ボランティアの皆様に詳しく説明していただき満足しましたが、母屋の内部を見学できなかったことだけが心残りでこれは今後の楽しみともいえます。

3.安田財閥の始祖・安田善次郎 
 安田善次郎は富山藩の下級武士の子として天保9年(1838年)に生まれました。江戸に出て奉公中の蓄財を元に日本橋人形町に海産物商と両替商を開業し、これが後の安田財閥の基となった安田商店です。善次郎は幕府の御用両替で巨利を得て、42歳で安田銀行を開設し、三井、三菱、住友の三大財閥とは異なり持株会社の安田保全社を中核にして銀行、損保、生保の金融に特化した金融財閥を一代にして築きあげました。大正時代には銀行20行、保険会社4社、事業会社15社を擁するまでになりました。大正10年(1921年)9月大磯の寿楽庵で暴漢・朝日平吾に襲われて82歳でこの世を去り、これが昭和初期に起こった財界人を襲撃するテロリズムの先駆けとなりました。

 安田善次郎は「勤倹堂」「実行道人」と自称し、意思堅固で実直な人で
安田屋開業時には商売三カ条「嘘をつかぬ」「真心を持って客に接する」「買い人には一番良いものを売ってやらねばならない」といったサービス精神を重視し、後に処世訓『今日一日の事』として「恩を忘れず、腹を立てない、悪口をいわない、家業を大切に、・・・」も残しています。
 また、“金持ちなのにケチだ”“天下一のしまり屋”“冷酷な守銭奴”などといわれ世評は芳しくなく、政治献金や筋の通らない寄付は一切拒否し“寄付嫌い”で有名だったようです。明治12年の暮、東京本所にあった徳川御三郷の旧田安家の広大な敷地を購入した時には「なにごともひっくり返る世の中や 田安の邸を安田めが買う」などと風刺され、大倉喜八郎は「慈善事業への出資はなく、金を握ったら離さない男だ」とか、渋沢栄一も「彼のあれほどの力と資材を国家に用いていたなら……」などとの評判に対して善次郎は「自分の天職は金融業にあり」とし「小鳥ども笑はば笑へ、我はまた世の憂きことを聞かぬみみずく」と超然として自己の信念で経済合理主義を貫いたところが気骨ある大人物の所以です。
 日比谷公会堂、東大安田講堂など莫大な寄付をしたにもかかわらず、恩賜財団済生会の寄付を断ったため男爵になれなかったともいわれています。
4.数寄者としての安田松翁
 安田善次郎の余生の楽しみは、囲碁、茶道、謡曲、狂歌でした。囲碁についてはプロ棋士を招いて稽古をする「拙碁会」を毎月開催したことからみると「人付き合いが下手で孤高の人だった」などという“善次郎評”は当を得ていないのではないかと思います。
 善次郎の父・善悦が富山藩の「茶坊主」の職にあったことや購入した本所の田安邸には裏千家の名席「又隠(ゆういん)」を写した席が備わっていたことを契機に茶道にも関心を持つようになり、明治13年には表千家の千宗左の下に入門し“松翁”と名乗ることになりました。
 数寄の世界における松翁の最大の功績は、明治13年1月から明治44年12月に至るまで自分が開いた茶会28回、招待されて出席した茶会365回の記録を残したことです。これは「松翁茶会記」(3冊、索引1冊)として、没後の昭和2年に保善社から刊行されました。大正時代の茶会記としては高橋箒庵の「大正茶道記」、野崎幻庵の「茶会漫録」などの詳細な茶会記がありますが、高橋箒庵も「松翁茶会記」について「明治時代に於ける茶事に就いては、此松翁茶会記を以て唯一の史料と看做さざる可からざるなり。」として、その史料的価値を高く評価しています。
 松翁は、同世代の数寄者の井上世外(馨)、益田鈍翁(孝)などとは一線を画し、茶道具の名品は購入しない主義を貫いたとされています。確かに、世外旧蔵、鈍翁旧蔵という茶道具はときどき登場しますが、松翁旧蔵というものは見たことがありません。
 他の茶会記とは異なって「松翁茶会記」に見られる特徴としては、「近代茶道史の研究」(熊倉功夫著)によると、女性客が登場すること、江戸時代の遊芸の香りが漂う余興が付いていること、名物道具がないこと、料理屋から取り寄せた賑やかな料理などが挙げられていますが、安値の書画をまとめ買いをして茶道具にこだわらなかった松翁の人生哲学の一端が感じられます。
5.大磯の魅力
 江戸時代の大磯は東海道五十三次のうち日本橋から8番目の宿場町です。大磯宿には小嶋、尾上、石井と3軒の本陣が建ち並んでいましたが、200坪以上もあったという本陣の建物はなく、それらの跡地にただ標柱のみが立っています。大磯中学校付近には樹齢300年のクロマツの巨木の並木が続き旧東海道の面影を残していて往時を偲ぶことができます。
 明治18年、松本順(初代陸軍軍医総監)の尽力により、大磯に日本で最初の海水浴場が開設され、さらに松本は明治20年7月には伊藤博文に働きかけて大磯駅を設置したことから、避暑・保養のための別荘が次々に建設されました。

 “こゆるぎの浜”を望む旧東海道(国道1号線)と西湘バイパス(国道134号線)に挟まれた海岸地帯には旧伊藤博文邸(滄浪閣)、旧大隈重信邸、旧陸奥宗光邸、旧古河市兵衛邸、旧西園寺公望邸(隣荘)、旧池田成彬邸、旧鍋島直大邸など明治以降の政財界人の別荘が数多く建てられました。7ヘクタールに及ぶ広大な敷地に名刹の古材で造られた何棟もの建物や国宝の茶室「如庵」が建っていた三井総領家の三井高棟別邸跡は公園として整備・保存され、現在では県立大磯城山公園として一般公開されています。この城山公園と国道1号線を隔てて位置する旧吉田茂邸(本邸は平成21年焼失)、大磯駅正面には三菱財閥の2代目の旧岩崎彌之助邸(エリザベスサンダースホーム)など話題を提供した邸宅もあります。軽井沢の別荘と異なるのは、その規模の大きさで敷地が1万坪以上の別荘が建ち並んでいることです。あまりにも広いことと一般に公開されていないことなどで、別荘時代の建物の存在は確認できません。
 しかし、こうした別荘以外でも明治期に建設された日本最古のツーバイフォー工法の邸宅である旧山口勝蔵邸(非公開)、明治の文豪・島崎藤村が晩年を過ごした旧宅、藤村夫妻が眠る梅の名所の地福寺、さらに西行法師がかつて歌を詠んだというゆかりの地に建つ鴫立庵(しぎたつあん)など歴史と文化に数多く触れ合うことができる町が大磯です。


 以上


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