. 平成23年6月9日
『シニアの東都見聞録(1)』
東日本大震災による文化財の被災
井出昭一
1.プロローグ
 東日本大震災の発生から3カ月が経過し、津波や余震は収まりつつありますが、福島原発の“余震”は終息時期が不透明のまま現在でも不安が続いています。
 私が訪ねたいと思っていた美術館や公開中の歴史的建物にも地震の余波が押し寄せ、被災情況を確認するため休館した美術館、海外からの作品貸出ができなくなって開催を中止あるいは会期を延期した展覧会、予定していた建物の公開中止や公開時間の短縮などが混乱・錯綜し、未だに余震が残っているところもあります。以下は文化財の被災情況の“見聞録”です。
2.倒壊した灯籠
 …護国寺・綱町三井倶楽部・江戸東京たてもの園…
 地震の1カ月過ぎたころ、文京区の建物に精通している知人から、今回の大震災で護国寺の灯籠が倒壊したことを耳にしました。震災後、一時沈静化していた私の“建物徘徊症”が再発して、その情況を確かめようとして4月14日音羽の護国寺を訪ねました。
 護国寺の名物灯籠は、仁王門を過ぎて石段を登り不老門をくぐり抜けた右側に20基が並んで立っていました。このうち4基が倒壊し無残な姿をさらしていました。これらの灯籠は、大正11年11月、護国寺中興の祖である高橋箒庵が南都寺院の中から美しい形のものを選定して模造した20基の石灯籠を寄進したもので鐘楼の脇に並んでいました。大正11年11月といえば関東大震災のおよそ1年前、その際倒れなかった灯籠が倒れたのですから、いかに今回の地震が大きかったか証明している事実です。
 近くにある高橋箒庵の墓碑やその前に立つ徳川家から贈られたという葵の紋が刻まれた灯籠は無事でしたが、大隈重信の墓碑前に立っていた左側の灯籠1基が倒壊していました。
 4月20日には綱町三井倶楽部を10数年振りに訪れました。ここでも庭園内の灯籠が倒壊していましたが庭師が修復作業中でした。コンドル設計の華麗な建物の方は地震の被害はなく無事でしたので、係の方の誘導で各室内の状況を心行くまで見学できたことは幸いでした。
 4月27日、またしても灯籠の倒壊に出会いました。場所は小金井の江戸東京たてもの園。ひとつは、三井八郎衞門邸の玄関前の灯籠です。こちらは舗装されている地面に倒れたため、笠や火袋の一部が破損してしまっていました。もう一カ所は西川邸。北側の灯籠一基が地面に倒れてバラバラになっていました。灯籠はやはり立っているから美しいのであって、横倒しになっているのは哀れに見えてなりません。
 翌日、青山の根津美術館を訪ねました。本来なら開館70周年を記念して「KORIN展」が開催され、根津美術館の持つ国宝「燕子花図屏風」とアメリカのメトロポリタン美術館の「八橋図屏風」という尾形光琳が同じテーマで描いた代表作が100年ぶりに海を越えて再会することになっていました。ところが“目玉作品”の「八橋図屏風」が出品されないために中止となり、その代わりに開かれたのが「国宝燕子花図屏風2011」でした。
 根津美術館には、東大寺大仏殿前の金銅八角灯籠(国宝)の原寸大(高さ4.6m)の精巧な模造の灯籠をはじめ、庭園内には各所に点々と多数の灯籠が置かれていることを承知していましたので、地震で倒れていないか庭園内を隅々まで見て回りました。驚いたことに倒れているのはひとつもなく、無事で良かったと思いました。ところが、これは私の早合点で、根津美術館でも実はいくつかの灯籠が倒れる被害に遭い、私が訪ねたときにはすでに修復されていたことが後になって判った次第です。
3.外壁が剥落した江戸城大手門
 6月に入って、4日には三の丸尚蔵館へ行きました。東御苑への入場門のひとつ大手門の重厚な渡櫓門の外壁が剥落していました。大手門には、応急的に入口と出口の通路が確保されていたため、東御苑に入ることができましたが、地震の被害がここにもあったのかと思いました。東京タワーの先端のアンテナが弓なりに曲がってしまうほどの大規模の地震でしたから、やむを得ないことでしょうか。
 三の丸尚蔵館は震災の影響でしばらく休館していましたが、5月中旬から再開し「美術染織の精華…織・染・繍による明治の室内装飾…第2期」が開催中で、明治宮殿や離宮に装飾として使われた美術染織が公開展示されていました。一見すると描かれた花鳥画のようですが、目を近づけて観察してみると、綴錦(綴織)であったり、刺繍であったりするので驚きの連続でした。
 今回の地震で、都内で死傷者を出した唯一の建物の九段会館の様子も確認したかったのですが、当日は参加を申し込んであった講演会の時間が迫っていたためそれはできませんでした。ここは、昨年10月訪ねたときには、大ホールでは式典の準備中で、幸いにも天井やステージの状況を撮影することができました。現在ではこの美しい姿を見ることができなくなり残念なことです。
4.流失した岡倉天心の六角堂
 都内の重文指定の建物で、倒壊したものはありませんでした。私にとってガッカリしたのは、茨城県北茨城市五浦にあった登録有形文化財の六角堂が津波で流失し、跡形も無くなってしまったことです。六角堂は、岡倉天心が自ら設計して「観瀾亭(かんらんてい)」と名付けた僅か7.7u(2坪強)の小庵でした。海に突き出た岩盤の上に建てられていて、天心はここで波を眺めながら思索にふけり、ある時は“釣人”として釣り糸を垂らしたこともあったといわれています。六角堂で興味深いことは、敷かれている畳8枚はすべて台形での形状、寸法とも全く同じものが正六角形の亀甲形に敷き詰められていることです。これまで2回訪ねていますが、いずれも雨天でしたので、晴天の日に再度訪ねてみたいと思っていたところでした。
 茨城大の調査によると、六角堂の本体は数十メートル沖合に流されて海中に沈んでいるとみられ、回収・再建の動きも広がっているといわれていますので、横山大観の「五浦の月」の光景が早期に再現されることを願っているところです。
5.エピローグ
 六角堂を初めて訪ねたときは、未だデジカメがないころでした。2回目のときはデジカメを持って行きましたが、風雨の中で撮影するかどうか迷いましたが傘を差しながら写しました。今から考えると、そのとき撮った写真が私にとっては懐かしく貴重な資料となりました。
 また九段会館については、東京国立博物館の本館と並ぶ帝冠様式の代表的な建物ですから撮影しておきたいと考え、昨年10月、竹橋の東京国立近代美術館の帰りに立ち寄ってデジカメに収めました。今回の大震災で天井が落下して死傷者まで出すという都内における最大の惨事となったのは残念なことでした。現在では外観はともかく、とても内部を撮影することはできないでしょうから、震災前の写真はやはり貴重な資料となりました。
 そこで、今回の大震災で得られた教訓としては“建物の写真は機会があったらいつでもどこでも撮っておくべきだ”ということです。
 最近のデジカメは小型・軽量・高性能です。1回の充電で200枚以上の撮影が可能で、メモリーカードの価格も低下し、シニアの街歩きには大変便利この上ない携帯必需品です。私は多機能の高級機ではなく、ごく一般的なカシオのデジカメを愛用してきました。現在使用中のものは4台目です。価格は低下気味なのに対し、代替りの都度機能は向上していますので、申し分ありません。
 大震災以後、撮影した写真もかなりの枚数になりました。その材料を元にして「シニアの東都見聞録」を続けたいと思っているところです。 
以上

感想、ご意見などお寄せくださるときはここをクリックしてください。

「シニアの東都見聞録」目次へ戻るときはここをクリックしてください。