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平成23年4月6日
古今建物集 …美しい建物を訪ねて… 番外編
   
私の3月11日 …東日本大地震当日の記録…
     
井出昭一




1.プロローグ  
 2011年3月11日(金)午後2時46分、東日本全域を急襲したマグニチュード9.0の国内観測史上最大規模の地震。これは”地震大国”の日本で全ての人が初めて体験した超特大の地震でした。
 偶然にも私は“美しい建物を訪ねて”いるときにこの巨大地震に遭遇しましたので、記憶が薄れないうちに当日の状況を取りまとめてみました。
2.地震発生前の状況
8:30自宅→10:00新宿・朝日カルチャーセンター(真向法体操教室)→
12:00昼食(新宿住友ビル51階)→13:00御茶ノ水駅→ニコライ堂→聖橋→
湯島聖堂→14:40神田明神=14:46地震発生
 3月11日の金曜日。いつも通り朝日カルチャーセンターの真向法体操教室に通うため8時30分に家を出て新宿住友ビルへ行きました。体操教室の窓の眼の前にそびえる東京都庁舎は澄み切った空を背景に毅然とした姿で、その6時間後に起きる巨大地震など全く感じられませんでした。
 体操終了後、親しい仲間と同じビルの51階のレストランで昼食を済ませ、私は家人から依頼されていたケーキ造りの材料を買うため御徒町へと向かいました。
(1)聖橋…アーチが美しいコンクリートの橋
 新宿から中央線に乗り、御茶ノ水駅のホームで総武線の電車を待っているとき目に止まった聖橋の姿があまりにも美しいので、ひと電車を見送って“美しい橋”聖橋の姿を常時携帯のデジカメで撮りました。
 聖橋は御茶ノ水駅の東の端にあって、本郷通を千代田区の神田駿河台と文京区の湯島を結ぶ鉄筋コンクリートのアーチ橋です。重要文化財の永代橋とともに関東大震災後の震災復興橋梁の一つとして昭和2年に完成ました。聖橋を設計した山田守(1894〜1966)は、ル・コルビュジエの影響を受け、ブルノー・タウトとも親しかった建築家です。聖橋は遠くから見ると曲線がくっきりと印象的で、近づいて下から見上げると威圧感があって迫力満点の堂々たる姿です。
 暖かさを増した春の日差しに誘われて、急に道草をしようと思い付き、聖橋の両側に建つ二人の聖人の館…ニコライ堂と湯島聖堂…を訪ねることにしました。

(2)ニコライ堂…関東大震災後に岡田信一郎が修復設計
 ニコライ堂は御茶ノ水駅の神田寄りの聖橋口を出て、本郷通を都心に向かえば200m足らずのところにあります。駅から近いのでこれまでも何回か訪ねていますが、天候や季節によって印象が異なりますので、毎回新たな発見があるところです。
 幸いなことに、今回訪ねたときは聖堂内部の公開時間中でした(10月から3月までの平日の公開時間は13時から15時30分までです)。一人の先客は私と入れ替えに退出されましたので、私はただ一人の客として大聖堂のドームを見上げながらガイドの説明を耳にして改めて感心していました。
 ニコライ堂は、私にとって“未開拓”の建物です。1891年(明治24年)2月に竣工した建物の原設計者はロシアのミハエル・シチュールポフで、実施設計はジョサイア・コンドルが担当し、1923年(大正12年)の関東大震災で被災した建物の修復を担当したのが、明治生命館を設計した岡田信一郎です。原設計、実施設計、修復設計の移り変わりを調べなければと思いつつ果たせないでいますので、これからの宿題となっています。
 ガイドの説明の中で、コンドルの設計したもう一つの建物が敷地内に存在しているということを初めて知り、これは新たな収穫でした。とりあえずコンドル設計といわれる建物の写真を撮りましたが、この建物についてもさらに調べなければならないという“楽しい宿題”を抱え込んでしまいました。
(3)湯島聖堂…屋根の上に怪獣が鎮座
 いつの間にか日が陰ってきましたが、聖橋を渡って次の道草の対象である湯島聖堂へと向かいました。聖橋はその上を歩くと変哲もないのですが、下から見上げるとアーチの曲線が実に美しい橋です。
 当日、湯島聖堂の大成殿の回廊では、大学の彫刻の展示発表会が開催中でしたが、建物自体を撮影したい私にとっては、展示されている彫刻作品には関心がなく瓦屋根に居座っている怪獣を撮ることにしました。
 伊藤忠太の建物には、いつもどこかに独特の怪獣が潜んでいます。大成殿の屋根の両端に鎮座するのは鬼\頭(きぎんとう)という想像上の神魚で、火を避けて火災を防ぎ、建物を守るために祀られています。これは鋳銅製で重さが600kg以上もある代物だそうです。また、四隅の角で睨んでいる鬼龍子(きりゅし)は、やはり想像上の霊獣ですが、何とも不気味な様相をしています。
 こんな怪獣と付き合っている間に風も寒くなってきましたが、時刻はまだ2時30分。家人から依頼された買い物をして帰宅するのは時間がありそうなので、さらに足を伸ばして神田明神へ回ることにしました。正月にここを訪ねたときには、初詣客で溢れていた境内ですがこの日は閑散としていました。鳥居を通り過ぎるころには日差しも再び回復し、お宮参りの親子に軟らかく降り注いでいました。
(4)神田明神…日本初の鉄骨鉄筋コンクリートの社殿
 神田明神は天平2年(730年)に創建されたとされ、東京でも最も歴史ある神社の一つです。江戸時代には、最も多く朱印地(神社の所有地)を寄付し、幕府からも崇敬されたとされています。また、江戸大社の一つで、5月の神田祭で知られる神社です。
 江戸時代に造られた社殿は、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失し昭和9年(1934年)に鉄骨鉄筋コンクリート造で竣工したのが現在の社殿です。桃山神殿風の豪華絢爛な造りの建物を設計したのは大江新太郎(1875〜1935)と佐藤功一(1878〜1941)。施工は木田保造(1885〜1940)の木田組が請負いました。
 大江新太郎は、和風コンクリート建築の先駆けで、大正10年に代々木の明治神宮宝物殿を鉄骨鉄筋コンクリートの校倉造り風のデザインで設計・竣工させています。佐藤功一は早稲田大学の大隈講堂(重要文化財)や日比谷公会堂の設計で有名な建築家です。
 また木田保造は、日本で初めての鉄筋コンクリート造の寺院として、東本願寺函館別院(竣工:大正3年)を手掛けており、神田明神はその代表作といえる作品といわれています。このように神田明神は、和風コンクリート建築の設計と施工の先駆的専門家の共同により実現した社殿建築です。
 説明書きには『神田明神は日本初の鉄骨鉄筋コンクリート製社殿』で地震にも火災に対しても防備されていることですから、今になって考えてみると私が地震発生時にいた神田明神境内は広い場所で、しかも社殿が堅固な建物であったため比較的安全な地点だったようです。
3.地震発生の瞬間…神田明神の境内
 2011年3月11日(金)午後2時46分。神田明神の境内で御社殿の写真を撮っていたときに突然あの巨大地震が発生しました。
 一瞬、急に目まいがしたのかと錯覚しました。絶対に動かないと確信していた地面がフワフワした感じで、急に何かに捉まりたい気持になりました。
 鳳凰殿の吊り灯籠が天井に着くほど激しく左右に振れ動き、5mほどもある大きな石灯籠がグラグラ揺れてまさに倒壊寸前。重い石灯籠が転がってきたらと思うと恐ろしさのあまり寒気がしました。境内の周りのビルが激しくガタガタ音を立てて揺れるというのは初めて目にする光景でした。大地震だと判って参拝客、宮司、神社職員などが広場に集まってきました。そのとき夢中でカメラで数枚撮影し、安全のためカメラをリックに入れてしまいました。
 今になって思うと、その後の経過を撮影すればよかったと思いますが、あの時点では、無事に帰宅することが最大の課題で、写真どころではなかったというのが本心でした。
 午後2時55分、私の携帯電話に第一報メールが届きました。「地震で大揺れです。今どこにいますか?」と。検査のため浦和の医院に長女と同行していた家内からのメールでした。これに対して、私も慣れない携帯メールで3時7分「いま神田明神にいて無事です」と家内宛に発信しました。
 このメールの交信で、家族全員が無事でいることを早期に相互に確認できました。このため、その後は比較的落ち着いた気持ちで行動できたように思います。
4.地震発生後の歩行径路
午後3:15神田明神の境内→明神男坂→中央通り(外神田三丁目・末広町・「酒悦」)→不忍池→無縁坂→東大構内(鉄門→安田講堂→正門)→正門前・棚澤書店→
西片・淑高組(工務店)
[不在]→本駒込・義兄宅[不在]→山手線駒込駅→
午後5:00飛鳥山・渋沢史料館に到着=翌朝まで避難
 これ程の巨大地震ですから、電車は当然不通で早期の回復は期待薄と判断し、最悪の場合は蕨の自宅まで歩いて帰ろうと決心を固めました。早くに決断できたのは、大きいリックの中に午前中使った真向法体操のための体操着とタオルが入っているうえに、寒がりの私の当日の服装は防寒用の厚手の帽子と手袋、さらに歩き易い底の厚いハイキングシューズと、まるで地震を予知していたかのような緊急避難用のいで立ちだったからです。帰路は相当の困難が予想されるので、神田明神境内のトイレに行った後、まず自販機でペットボトルのお茶を購入して水分を確保しました。
 明神男坂の急な石階段を慎重に降りて、上野広小路の中央通の歩道に出た時点で大きな余震に遭遇。道路の両サイドの高いビルが再びガタガタと音を立て屋上のアンテナは千切れそうに激しく揺れました。特に雑居ビルの揺れが激しく、看板やガラスなどの落下する危機を感じ、ひょっとするとビルも倒れてくるのではないかという恐怖感にも襲われ、歩道を歩く気になれず車道を上野方面に急ぎました。
 信号待ちの際、鯛焼きの店が目にとまり、帰路の途中、空腹を癒せるかと思って鯛焼きと大福餅を購入し、さらに漬け物の老舗「酒悦」ではパック入りの茄子、大根、蕪などの漬物を買い込みました。「大は小を兼ねる」のとおり、ここでは大きめのリックが役立ちました。水と甘辛両党のささやかな食べ物も確保できたため「備えあれば憂いなし」ということばどおり、比較的“余裕”がでてきました。
 建物の密集している細い道を避けて、中央通を北に進み、上野広小路から不忍池の畔を通って無縁坂を経由して鉄門から東大構内へ入りました。後日、地図で確認したところ、長方形の長い一辺で済む所を遠回りして三辺も歩いたことが判り、地図を持っていながら動転していて、確認をする“余裕”すらなかったのではないかと思います。
 東大構内では、附属病院の前から安田講堂を経て正門へと安全そうな場所を通り抜けて、正門前の「棚澤書店」に立ち寄りました。「棚澤書店」は古書店が林立する本郷界隈にあって登録文化財となっている由緒ある建物です。主人の棚澤孝一さんとは、迎賓館赤坂離宮のボランティアで親しく交流させていただいている間柄です。天井までぎっしりと詰められていた本が散在したかと心配しましたが、最上段の本のみ落下したということで、私が訪ねたときには、高齢の棚澤さんはヘルメットを着用して応対され、本は元に戻されていて地震の影響は全く感じさせませんでした。電話を借用して、本駒込に住む義兄宅に電話しましたが呼び出し音のみ。棚澤さんから緑色の公衆電話が通じやすいと教えられ、とりあえず本郷通を北に向かうことにしました。
 西片町まで来た際に、現在わが家の改装工事をお願いしている建築会社を訪問しましたがこちらも不在の様子。さらにしばらく歩いて本駒込の義兄宅に立ち寄りましたが玄関は施錠されていてブザーで呼べどもこちらも不在で応答なし。
 やむなく本郷通を歩き続けることにしました。途中、駒込駅では改札口を入って駅構内のトイレを借用。「男性トイレ」は待ち時間がなかったものの、「女性」の方は何と30人近くの行列が続いていて寒い中お気の毒としか言いようもない。
 本郷通に面する六義園や古河庭園にはたびたび訪れているので、土地勘があり、距離感も把握できているので、私は迷うことなく飛鳥山の渋沢史料館を目指して歩き続けました。
午後5:00に渋沢史料館にようやく到着。正面のガラス扉を施錠して立ち去ろうとしていた親しい職員に合図をして解錠をお願いし、ようやく“避難所”に入室できました。
 渋沢史料館は、毎週土曜日の午後、公開している重要文化財の晩香盧と青淵文庫の建物担当として通い続けているところですから、勝手を知っているところです。史料館の中2階の職員休憩室が緊急の避難所となり、交通事情で帰宅できない職員数名と一緒に電車の回復を待機することにさせていただきました。
 買い置きのビールとつまみ類で、とりあえず無事を喜び合いました。食糧を買い出しに行った職員の話では、付近のコンビニにはご飯ものの弁当は無くなっていたようです。手に入ったカップ?や梅粥などが夜食になり、電気ポットの熱いお湯が使えること自体が大変ありがたいことでした。私が上野の広小路で買ってきた漬物は好評で、とくに女性群からは甘い鯛焼きが喜ばれ、図らずも“避難所”に受け入れていただいた御礼になりました。
 刻々とテレビで放映される地震の状況は想像をはるかに超えるもので、時間が経過するに従って、被害が急激に拡大していることがわかりました。NHKのテレビでは、山手線や京浜東北線は11日中の復旧は困難との放映があったので、日が変わって12日になれば電車は動き出すと期待していましたが、電車の回復はないまま日付が変わり、結果として渋沢史料館で一夜を明かすことになりました。
 渋沢史料館の備え付けの「日本のステンドグラス」「写真な建築」など写真の多い図書を眺めたり、当日の午前中、真向法体操教室の知人から借用してきた「翡翠の城」(…建築探偵桜井京介の事件簿…篠田真由美著、講談社文庫)の流し読みをしているうちに長かった夜がようやく明けてきました。
5.地震の翌朝…3月12日(土)
7:10飛鳥山・渋沢史料館→7:20JR京浜東北線・王子駅→8:50東十条駅→
赤羽駅→10:30蕨駅→10:50自宅着
 6時からのNHKテレビで「JRの京浜東北線は午前7時全線開通」との報道があり、ようやく帰宅できるもの喜んで、帰宅の準備をし始めました。
 そのとき渋沢史料館の近くに住む女子職員が不意に訪れ、握りたての温かいおむすび数種類とクリームスープ、沢庵漬、野沢菜漬をわざわざ届けて下さいました。スープを盛り付けるお椀や箸まで添えていただき、心温まる気遣いにただ感謝するばかりでした。
 7時15分に王子駅ホームに着いて大宮方面行きの電車を待ちましたが、回復1便がホームに入ってきたのは1時間以上も過ぎた8時30分ごろでした。しかもその電車は、王子駅の隣の東十条止まり。東十条駅で回復2便を待っていると、到着した大宮行きの電車は、満杯で乗車不能。
 次の回復3便はまたしても東十条止まり。その次の南浦和行きに、一番前で待っていた私は滑り込んでなんとか乗車できました。ほとんどの客を乗り残したまま電車はようやく走り出しました。しかし、安全運転のため時速は35キロのノロノロ運転。そして踏切では安全確認のため一時停車。赤羽駅ではしばらく停車。ようやく走り出すと思いきや、今度は線路と鉄橋に参入者があり保護のために停車。 
 通常、蕨と王子間は所要時間15分のところ3時間もかけて、10時30分に蕨駅に到着。書棚の本や食器などが落下して散在しているのではないかと心配しながら自宅にたどり着くと、幸いなことにそのような被害もなく、私にとって長い3月11日は、ここでようやく終止符を打ちました。

6.エピローグ
 地震による津波で一瞬のうちに家や家族を失った被災者のことを思うと心が痛むばかりです。大きな打撃を受けた阪神淡路大震災から、日本は力強く立ちあがり復興しましたが、今回の地震についても日本の底力、たくましい回復力を信じたいと思っています。
以上

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