平成22年1月17日
古今建物集 …美しい建物を訪ねて…(44)

東京駅
創建時の姿に復元される駅舎建築の横綱
井出昭一
. プロローグ
 昨年末、わがパソコンの“写真収蔵庫”(外付けハードディスク)を整理したところ、赤煉瓦の東京駅を撮った写真が多数にのぼることが判りました。写真を整理しているうちに、東京駅に関する本(参考文献として末尾に記載)も何冊も買ってあることを思い出し、それらを読み直しながらまとめてみました。
 私にとって東京駅は会社時代30年間以上も利用し続けてきた最も馴染み深い駅です。帰宅途中、丸の内南口の1階のレストランで食事をしたり、2階のステーションホテルでお茶を飲んだり、地下にあった理容店で散髪もしました。また、丸の内北口のホールの定期コンサートで團伊玖磨が指揮をされた「とうきょうエキコン」、夏に特設のビアホールで乾いたのどを潤したことも今となっては懐かしい思い出です。
 現在は創建時の姿に復元されるための大規模工事が進行中で、赤煉瓦の雄姿は工事用フェンスで覆われてしまっていますが、慣れ親しんだ工事前の東京駅についての話題をいくつか紹介します。(なお、写真の撮影年月日は記しませんでしたが、すべてこの10年以内に撮影したものです。)
1.設計者は辰野金吾
 東京駅を設計したのは辰野金吾(1854〜1919)で、 “日本近代建築の父”ジョサイア・コンドルの第1期生として西欧近代建築を日本に定着させた建築家です。
 辰野金吾は、1854年唐津藩の下級武士の家(現在の佐賀県唐津市)に生まれ、1870年、藩が新設した英語学校に入り、そこで高橋是清から英語を学んだといわれています。その辰野が“英語の先生”高橋是清が総裁を務める日本銀行本店を設計することになったことはまさに奇遇といえます。
 1879年工部大学校造家学科を首席で卒業した辰野は、その報償として翌年イギリスに官費で留学する栄誉に浴することになりました。イギリスではロンドン大学やW. バージェスの設計事務所で学び、1883年帰国後、帝国大学工科大学設立とともに教授に就任して後進の指導に当たり、1898年には工科大学長に就任しました。
 工科大学を1902年に辞した辰野金吾は、翌年、日本人による本格的な建築事務所として葛西萬司と辰野葛西建築事務所を東京に開設し、ここからその後のわが国の建築界に大きな影響を及ぼす数々の西洋建築が生み出されることになりました。
 “明治建築界の法王”の別名を持つ辰野は「建築家として生まれたからには、首都・東京に3つの建物を残したい」と語り、そのうち日本銀行本店(1896年)と東京駅(1914年)は自ら設計して本望を果たし、最後の国会議事堂の設計にも執念を燃やしていましたが、東京駅竣工のわずか5年後の大正8年(1919年)に66歳でこの世を去りました。もし、辰野の望みがかなっていたらどんな国会議事堂が誕生したのでしょうか。『もし辰野金吾が国会議事堂を設計したら?』というコンペを実施したら受けるのではないかと勝手に想像しているところです。
2.華麗な赤レンガ駅舎の誕生
 明治36年12月、辰野が駅本体の設計を依頼された時点での予算は42万円でした。設計依頼後、日本が日露戦争に勝利を収めたため、当時の鉄道院総裁の後藤新平が日本の威信を誇示するため、当初の平屋建て計画を2階建てに変更し、さらに3階建てにエスカレートすることになりました。そのため予算も本屋のみで280万円、付属設備まで加えると380万円に膨れ上がることになりました。大正3年(1914年)に開業したときには名称も「中央停車場」から「東京駅」と改められました。  
 竣工時には全長334メートル、中央棟にはピラミッド状の屋根をいただき、南と北には高さは50メートル弱のドームを擁し、赤煉瓦の色鮮やかな壁面には白い石のラインが走る3階建ての建物は、それまでの日本では例のない“さながら宮殿の如し”といわれるほど華麗な建物でした。当時、一般の人が利用できる唯一の西洋建築で、一躍東京の名所に躍り出たというのもうなずけるところです。左右のドームの内部の天井高は30メートルにのぼり、300坪の家ならゆうゆう1軒が建てられると辰野自身が豪語したといわれています。
 大正12年の関東大震災では、周辺の被害が甚大だったにもかかわらず、東京駅はびくともしなかったことで、設計と施工の入念さを物語るものだと高く評価されています。しかし、昭和20年5月25日深夜の空襲では、B29の投下した焼夷弾で、外壁と床を除いて大半を焼失することになりました。内田百閧ヘ『東京焼盡』で、まだ燃え続けている東京駅を目の当たりにして「東京駅が広い間口の全面に亙って燃えてゐる。煉瓦の外郭はその儘あるけれど、窓からはみな煙を吐き、中には未だ焔の見えるものもある。」と、その状況をつぶさに書き残しています。
 多くの乗降客が出入りする駅舎の復興工事は、終戦直後で建築資材が極端に不足するなか進められ昭和22年3月に完成しました。一刻を争う応急工事ということもあり、優美なカーブを描いていた左右の二つのドームは直線の角型に変わり、3階建ては2階建てに切り詰められるなど目に明らかな外観のほか、ホール内部の景観や表面には現れない細部のおいてもかなりの変更が加えられたようです。厳しい条件下の突貫工事であったため「4〜5年ももてばよい」といわれた応急修復にもかかわらず、50年以上も持ちこたえてきたわけです。


3.見どころの多い赤煉瓦駅舎
 昭和35年に「新東京駅改良計画案」が打ち出されて、赤煉瓦の駅舎が取り壊される危機が表面化しました。日本建築学会が保存要望書を提出したり、三浦朱門、高峰三枝子、黛敏郎、森まゆみなどの知識人を中心に「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」による大規模の市民運動も展開され、最終的には、取り壊しは免れました。JR東日本は創建当初の姿に復元することを決め、平成15年(2003年)には重要文化財に指定されました。
 東京駅が素晴らしいのは、遠くから見ても近寄って見ても、昼間見ても夜景を見ても“八方美人”どころか“四十八方美人”の建物だからです。そのため四季を通じて写生や被写体として楽しめる格好の対象となっています。
 横幅があまりのも長いので通常のカメラで全体像を写すことは困難ですが、新丸ビルとか明治安田生命ビルからみるとその全体の姿をとらえることができます。図らずも東京中央郵便局の取り壊し前の状況も見ることができました。外壁の煉瓦と白い石で構成される窓回りなど美しいところばかりですが、私が最も気に入っている外観は正面玄関付近です。
 東京駅は開業以来、戦災に遭ったほか、何度も改築・増築を繰り返してきましたが、開業当時のままの支柱が今でも5〜6番線ホーム(山手線の外回りと京浜東北線の南行きのホーム)の有楽町寄りに何本か残っていて、往時の一端を伺うことができます。2組の支柱は緑色に塗られていて、柱頭にはコリント式のアカンサスの飾りまでつけられています。よく見ると屋根を支える鉄棒の中心には丸い花模様の装飾が施され、屋根の上に突き出ている架線の支柱にも大小の円形の輪などがさりげなく使われていて、機能本位ではない余裕が感じられます。
 東京駅は、原敬と浜口雄幸の二人の首相が暴漢襲われた悲劇の舞台となったところでもあります。大正10年11月4日に原敬首相が襲われたところは、丸の内南の改札に向かって左側の床に丸印の埋め込みがあり、近くの壁に「原首相遭難現場」の銘板が掲げられていました。現在は、工事中のため覆われていて見ることができません。

スライドショー 「見どころの多い赤煉瓦駅舎


4.展覧会の思い出
 1988年に赤煉瓦の駅舎内に「東京ステーションギャラリー」が誕生しました。入口が丸の内の中央口と北口の間にありましたので、会社の帰りにしばしば立ち寄ったものです。
 守屋多々志、小松均、宇田荻邨、福王寺法林などの日本画家、バルティス、ベン・ニコルソンなど一風変わった洋画、陶芸では加守田章二、彫刻の高田博厚などの展覧会が記憶に残っています。
 また、ジョサイア・コンドル、磯崎新、高松伸、安藤忠雄、前川國男など建築家に焦点を当てた展覧会が数多く開かれことは、私にとって大いに参考になりました。(1990年の「東京駅と辰野金吾」展は見ることができず残念でした。)
 ジョサイア・コンドル展、前川國男展の図録は、重くて分厚い資料ですが、内容が充実しているため今でも時々使っています。前川國男建築展の関連イベントとして藤森照信東京大学教授による「前川國男と赤煉瓦建築」と題する講演会が2005年2月7日に駅舎内のホテルで開催されたことがあります。100名限定の事前申し込み制でしたが、私が知ったときには、締め切り期日を過ぎていました。当日早めに受付に行って伺うと満席となっているが、当日のキャンセルがあれば入場可能だというので、定刻まで不安な気持ちで待っていたところ、キャンセルが出たため幸いにも参加を許され、あの軽妙な“藤森節”を拝聴することができました。
 「前川國男建築展」終了後、東京駅は復元工事に入り、完成する2011年まで閉館となりました。したがって、この2月7日が東京ステーションギャラリーと東京ステーションホテルとも見収めの日となりました。幸いにもデジカメを携行していたので、ホテルの内部や窓から見える駅のホール内の状況や窓から外の風景など貴重な写真を撮ることができました。




5.信任状捧呈式の儀装馬車列
 もうひとつ儀装馬車列を偶然撮影できたラッキーな話があります。
 新任の駐日大使が天皇に信任状を提出する信任状捧呈式は皇居で行われます。日本へ新たに赴任した外国の大使は、東京駅正面玄関から皇居の宮殿までの移動する手段として、自動車か儀装馬車のいずれかを選ぶことができることになっていますが、ほとんどの大使は装飾華やかな儀装馬車を選ぶそうです。平成19年3月、丸の内中央口から出た際、この馬車列に巡り合うことができました。赤煉瓦の東京駅を背景とする大使の乗る馬車と警護のための皇宮警察官や警視庁の騎兵隊を加えた儀装馬車の列は日本とは思えない珍しい光景でした。
 東京駅の工事期間中は、馬車列がスタートする場所は明治生命館となっていますのでその情景を是非とも拝見したいものです。馬車列の背景として重厚な明治生命館はマッチするのではないかと思うからです。信任状捧呈式で馬車を使用する国は、日本以外では、イギリス、オランダ、スペインなどごく一部の君主国に限られていて、日本では、雨天の場合は馬車でなく自動車となるそうですから、私は快晴無風の好天のもとで貴重な写真を撮影できたと思っています。こんなことがありますから、私は片時もデジカメを離せません。



6.甦る往時の姿
 東京駅の駅舎を、当初の創建時の姿に復元する工事が2007年5月から進められています。戦災で失われた3階部分が戻され、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠が復活され、駅舎の線路側の外観も見ることができるようになるそうです。
 なお、工事に伴って休止している東京ステーションギャラリーと東京ステーションホテルも駅舎の完成とともに再開される計画でうれしい限りです。駅舎復元工事に合わせて駅舎正面の丸の内側の駅前広場と行幸通りも再整備される計画ですから、完成予定の2011年度末は東京駅の丸の内側の様相は一変するので今から楽しみにしているところです。



[参考文献]
1.『東京駅の世界』かのう書房編、かのう書房、1982年
2.『建築探偵の冒険 東京編』藤森照信著、筑摩書房、1986年
3.『東京駅探検』中川市郎、山口文憲、松山巖著、新潮社、1987年
4.『赤レンガの東京駅』赤レンガの東京駅を愛する市民の会編、
岩波書店(岩波ブックレットNo.258)、1992年
5.『東京遺産…保存から再生・活用へ…』森真弓著、岩波新書、2003年
6.『東京駅はこうして誕生した』林章著、ウェッジ選書、2007年
[東京ステーションギャラリーの図録]
1.『東京駅と煉瓦…JR東日本で巡る日本の煉瓦建築…』1988年
2.『前川國男建築展…生誕100年…』2005年
 展覧会トピックス 2010.1.17 
 美術館、博物館など開催場所のURLを表記しましたので、詳細はそれぞれのホームページをご覧ください。(会期が終わったものもありますが、記録のため掲載します。)
1.「川喜田半泥子のすべて展」
 会 期:2009.12.302010.1.18
 会 場:松屋銀座 8階大催場
 休館日:1030
 入場料:一般 1000
 電 話:0335671211
 川喜田半泥子(本名:久太夫)は、三重県津市の素封家の家に生まれ、百五銀行の頭取まで歴任した経済人ですが、50歳から始めた陶芸のほか、書画、茶道、俳句、建築などの分野で多彩な芸術的才能を発揮しました。陶芸では、志野の荒川豊蔵、備前の金重陶陽、萩の三輪休和、唐津の中里無庵など人間国宝級の優れた作家と交流して才能を磨きあげ、陶芸の世界に新風を吹き込んだことで高く評価されています。多彩な作品や資料など200点余りが展示され、半泥子の全貌を知ることができました。


 http://www.matsuya.com/ginza/topics/100118e_kawakita/index.html
※川喜田半泥子と明治生命との関係
 川喜田半泥子の本名は川喜田久太夫といい、川喜田家16代当主久太夫政令です。川喜田久太夫は、明治生命が株式会社の昭和6年12月末時点では1105株(5.5%)を保有し、岩崎家の岩崎久彌(6800株保有)に次ぐ二番目の大株主でした。さらに、明治生命保険株式会社の監査役としては大正14年2月から昭和19年6月まで、引き続いて昭和19年6月から昭和21年11月までは取締役として在任されました。
「川喜田半泥子のすべて展」図録の略年譜では「1944(昭和19)年 66歳 明治生命保険会社取締役就任」とのみ記載されていますが、川喜田半泥子(久太夫)と明治生命とは、上記のとおりかなり深い関係にありました。
 明治生命が戦後、相互会社となってから第3代目社長の高木金次氏および第4代目社長(後の会長)の関好美氏と川喜田久太夫とは親交があったことをご本人から直接伺ったことがありますが、さらに詳しく聴いておけばよかったと思っているところです。

2.「北大路魯山人展…没後50年…
(日本・ポルトガル修好150周年記念)
 会 期:2009.12.272010.1.18
 会 場:日本橋 高島屋8階ホール
 入場料:一般 800
 http://www.takashimaya.co.jp/tokyo/event2/index.html
 陶芸を本業としない“ノンプロ陶芸家”として川喜田半泥子と双璧をなす北大路魯山人の展覧会が同時に開催されました。
 魯山人は美と食の大家としても広く知られ、その芸術活動は陶芸のほか篆刻、書、画、漆芸と多岐にわたります。魯山人はその道を究めた芸術家や職人との数多くの出会いにより、天賦の美的感性がさらに磨かれ、大きく開花しました。魯山人の手がけた多彩な作品200余点と、会員制の料亭「星岡茶寮」で使用された食器30余組が展示されました。さらに、魯山人70歳の時当時パナマ船籍のアンドレ・ディロン号の船室を飾るために制作された壁画「桜」と「富士」が特別展示されました。


3.「麗しのうつわ…日本やきもの名品選…」
 会 期:2010.1.93.22
 会 場:丸の内 出光美術館
 入場料:一般 1000
 電 話:0357778600(ハローダイヤル)
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
 http://www.idemitsu.co.jp/museum/
 出光美術館の陶磁コレクションは優品が揃っていることで定評があります。古くは猿投(さなげ)、古瀬戸から始まり、志野、織部、古唐津、楽、京焼、古九谷、柿右衛門、鍋島を経て、板谷波山にいたる近代におよぶ日本陶磁の名品が一堂に展示されます。

4.「山本冬彦コレクション展…サラリーマンコレクター30年の軌跡…」
 http://homepage3.nifty.com/sato-museum/exhibition/index.html
 会 期:
2010.1.142.21
 会 場:新宿・大京町 佐藤美術館
 入場料:一般 500
 電 話:0333586021
 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
 長年懇意にしている山本冬彦さんがサラリーマン生活30年の間に収集した1300点の絵画作品のうち160点が展示されています。「ゴルフ、酒、タバコ、カラオケ、マージャン、競馬などは一切やらず、車も持たず一点集中でアートに費やしてきました」という“アートソムリエ”を自称する山本さんのことば通り、画廊巡りを精力的に継続してきた結晶の一部を興味深く拝見できました。山本さんは単に絵画収集だけではなく、近年は若手作家の育成にも力を注ぎ「個人メセナ」まで実践していますのでその多角的活動には敬服するばかりです。

以 上

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