平成19年9月20日
古今建物集 …美しい建物を訪ねて…(15)
   
           三溪園…原三溪の古建築コレクション…
               
井出昭一
 今回は、“大正の光悦”といわれた原三溪が情熱を傾けて横浜・本牧の地に造った“東の桂離宮”と評される三溪園を取り上げます。

1.三溪園の経緯
 愛知県犬山の明治村は、名古屋鉄道の土川元夫社長と建築家谷口吉郎のコラボレーションですが、三溪園は原三溪が一個人として作り上げ、昨年、開園100年を迎えた日本では最も歴史の長い野外博物館です。
 東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる175,000m2(約5.3万坪)におよぶ土地は、三溪の手により1902年(明治35年)から造成が始められ、1906年(明治39年)5月1日私邸の門柱に“遊覧御随意”の看板を掲げて三溪園は市民に公開されました。
 広大な園内には、京都や鎌倉などから歴史的に評価の高い建物を移築されています。現在、国の重要文化財に指定されている建物が10棟、横浜市の指定有形文化財が3棟も建てられている“古建築博物館”です。このように優れた古い建築を数多く集め、自宅敷地内に移築したという例はほかにはありません。
 1939年(昭和14年)三溪の没後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)には、原家から横浜市に譲渡・寄贈されました。これを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、園内の復旧工事を実施されて現在に至っています。

2.三溪園の建物
 三溪園は大きく二つの部分から成っています。開園以来一般市民に開放されている外苑と原三溪の私邸となっていた内苑です。以下、外苑と内苑の建物の概要を紹介します。
(1)外苑の建物(重要文化財 4棟、横浜市指定有形文化財 1棟) 
① 鶴翔閣<横浜市指定有形文化財> 
 入口から園内にはいると、明るく開放的な外苑が広がります。道の右には蓮池と睡蓮池が続き、その奥に鶴翔閣の姿が眼に入ってきます。鶴翔閣は、1902年(明治35年)三溪が建てた広さ950㎡(290坪弱)の原家の家族のため茅葺屋根の旧宅で、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。上空から見た形が鶴の飛翔する姿を思わせることから“鶴翔閣”と名づけられています。日本を代表する文学者がここに集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家たちもここに滞在し次々と傑作が生まれたところです。
 戦中に茅葺きが禁止されたため瓦葺き屋根に改築されましたが、2000年(平成12年)には建築当初の風格ある姿に復元されました。現在では会議、パーティー、茶会などで利用できる貸出施設となっています。
② 旧燈明寺三重塔【重要文化財】
 三溪園に足を踏み入れると左側には大池が広がり、池の先の小高い山の頂には旧燈明寺三重塔が眼に止まります。園内のほぼ全域から見ることができるこの三重塔は三溪園を象徴とする建物です。 1457年(康正3年)の建築で、三溪園には、1914年(大正3年)に移築されました。移築に際しては、臨春閣、聴秋閣などの室内から程よく眺められるように配置されたといわれています。
③ 旧燈明寺本堂【重要文化財】
 三重塔と同じ京都燈明寺(現在は廃寺)にあった室町時代の建物で、三溪園には、三重塔が移築されていた縁で寄贈されました。1988年(昭和62年)に5年がかりで移築・保存作業が行われ、中世密教寺院の姿に復元されました。


④ 旧東慶寺仏殿【重要文化財】
 鎌倉の東慶寺にあった江戸時代初期の仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。建物の様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない仏堂建築です。
⑤ 旧矢箆原家(きゅうやのはらけ)住宅【重要文化財】
 1750年頃(宝暦年間)造られた大きな茅葺屋根を持つ合掌(がっしょう)造りの民家です。岐阜県白川郷にありましたが、御母衣(みほろ)ダム建設によって沈むため、矢箆原家から寄贈を受けて1960年(昭和35年)に移築されました。入母屋造りの屋根の妻側には火灯窓が設えられていたり、扇を彫り込んだ欄間があるなど、農家ながら格式の高いところが注目されます。

⑥ 林洞庵 (りんどうあん)
 宗徧流林洞会から1970年(昭和45年)に寄贈された八畳の広間と四畳の小間からなる茶室で近代的な数奇屋風の建物です。

⑦ 横笛庵(よこぶえあん)
 素朴ながら風趣のある田舎風の草庵で1908年(明治41年)に建てられました。建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と呼ばれています。横笛とは高倉天皇の中宮建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性で、2人の悲恋話は高山樗牛の小説「滝口入道」で有名です。

(2)内苑の建物(重要文化財 6棟、横浜市指定有形文化財 2棟)
① 御門(桃山御門)<横浜市指定有形文化財>
 1708年(宝永5年)ころ建てられた京都東山の西方寺の薬医門で、大正年間に移築されました。
② 臨春閣(桃山御殿)【重要文化財】
 臨春閣は、紀州徳川家の初代徳川頼宣が夏の別荘として、現在の和歌山県岩出町に1649年(慶安2年)に建てたもので、現在、日本に残存する唯一の大名別荘建築として貴重な遺構です。2年の歳月をかけて1917年(大正6年)完成されましたが、三溪の所有になってから実に11年熟考を重ねたことになります。
 第一屋(来客や家臣の控え室)、第二屋(紀州候が来客と面会した部屋)、第三屋(奥方の居間)で構成され、襖絵は狩野派の永徳、山楽、探幽、安信などによって描かれています。欄間には、第一屋が波の彫刻、第二屋は歌が詠まれた色紙、第三屋の「天楽の間」には雅楽で使われる笙と笛など本物の楽器をあしらうなど、さまざまな工夫が凝らされています。
“東の桂離宮”といわれるほど気品に満ちた瀟洒なたてもので、南側から池越しの眺めは三溪園を代表する景観となっています。

 ここを原家では“桃山御殿”と呼び、大正11年11月10日、三溪の長男善一郎と團琢磨の四女壽枝子との結婚披露宴の会場となり、昭和14年8月16日、三溪が逝去されたときには葬儀会場となったところでもあります。



③ 白雲邸<横浜市指定有形文化財> 
 三溪が1920年(大正9年)に建て、亡くなる前までの約20年間を過ごした住居で数寄屋風の建物です。 玄関から入ってすぐの天井の高い洋間は食堂や談話室に使用され、三溪が気のあった来訪者と懇談し、美術品を鑑賞する場として使用しました。和風の木造住宅ですが、当時としては珍しい電話室やシャワーなどが取り入れられているほど近代的な設備が備えられていました。
 入口に掲げられている扁額は、三溪を兄事してやまなかった耳庵の揮毫によるものです。その揮毫の御礼にと耳庵を訪れたときに、耳庵は「この俺が、三溪先生のことでお金をもらうなんて思っているのか。とっとと持ち帰れ。」と、烈火のごとく雷を落としたという逸話が伝わっています。


④ 旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)【重要文化財】
 明治38年頃、三溪が内苑に移築した初めての古建築です。寿塔(じゅとう)とは、長寿を祝って生存中にたてる墓で、現在、天瑞寺寿塔は京都の大徳寺内の龍翔寺(りょうしょうじ)にあります。この覆堂(おおいどう)は1951年(天正19年)に豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、秀吉が建てたものと確証できる数少ないものです。蓮の花など彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳な感じを与えます。三溪の没後の法号はこの建物に因み「天瑞院富嶽三溪大居士」とされています。
⑤ 月華殿【重要文化財】
 徳川家康が1603年(慶長8年)京都伏見城内に建てた諸大名控えの間だったようです。 1918年(大正7年)に春草廬と共に移築されました。三溪が建てた金毛窟とつながっています。障壁画は、桃山時代の画家 海北友松(かいほうゆうしょう)によるものと伝えられます。


⑥ 金毛窟
 1918年(大正7年)に三溪が建てた一畳台目(いちじょうだいめ)の極小の茶室です。金毛窟という名は、床柱に京都大徳寺の三門・金毛閣の高欄の架木を使用していることにちなみます。20席の茶室を持っていた鈍翁でさえも持たなかった最小の茶室です。三溪は接続している月華殿で懐石を行い、金毛窟で茶を点てたそうです。


⑦ 天授院【重要文化財】
 もとは、1651年(慶安4年)建築された建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂で、1916年(大正5年)に移築されました。 建築様式は禅宗様(ぜんしゅうよう)を主体としています。天授院とは先代原善三郎の法号で、三溪園では、原家の持仏堂として先代が祀られていました。

⑧ 聴秋閣【重要文化財】
 三代将軍徳川家光により1623年(元和9年)に建てられたと伝えられる2階に小さな部屋を持つ2層の楼閣建築です。ゆるやか曲線を描く階段、平面を斜めにした部分を書院窓とするなど随所に独創的な意匠が凝らされていて、園内でも異彩を放つ建物です。1922年(大正11年)三溪が園内移築した最後の建物です。
⑨ 春草廬【重要文化財】
 三畳台目(さんじょうだいめ)の茶室は、桃山時代織田有楽斎の作と伝えられています。春草廬は、茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれ、明るく華やかな茶室です。
⑩ 蓮華院
  
1917年(大正6年)に三溪が建てたときは、現在の春草廬の場所にありましたが、第二次世界大戦後、現在の位置へ移築されました。二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、脇壁の格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材を使ったという三溪が自らの好みで造った自慢の茶室でした。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羅索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。
 三溪が大正6年12月23日に益田鈍翁、高橋箒庵、岩原謙庵ら大師会の主力メンバーを招いて茶会を開いた茶席でもあります。初陣とは思えない趣向で先輩数寄者をうならせ、一気に三溪を“大数寄者”に押し上げたと伝えられています。


3.“大正の光悦”といわれる原三溪
(1)原三溪とは
 原三溪の本名は青木富太郎といい、1868年(慶応4年)岐阜県厚見郡佐波村(現在の岐阜県柳津町)で代々庄屋をつとめた由緒ある青木家の長男として生まれました。1885年(明治18年)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し、政治・法律を学びました。1888年(明治21年)に跡見女学校の漢学と歴史の助教師となりました。1892年(明治25年)跡見花蹊女史の媒酌で、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿(やす)と結婚し、原家の家業であった生糸問屋業を引き継ぐことになりました。三溪は個人商店を「原合名会社」へと改組し、生糸輸出、製糸工場を始めるなどの次々に経営の近代化と国際化に注力し事業を拡大しました。
 結婚後の本名の「原富太郎」より「原三溪」の方がはるかに知名度が高いのですが、「三溪」と号し始めたのは、1904年(明治37年)頃からで、本牧三之谷という地名(谷→溪)に因んだものといわれています。
 企業経営以外にも三溪は、古美術の収集、若い芸術家の支援・育成を行ったことで知られていますが、三溪園には内外の芸術家、文化人、研究者が数多く集まり一大文化サロンの様相を呈していたようです。
 酒をのまず、煙草を吸わず、賭け事もせず、妾を持たず、三溪はその温和な顔かたちと態度にふさわしく、寛厚で礼儀正しいことで広く知られています。“三溪サロン”で親子ほども歳の離れている芸術家や研究者、出入りする美術商に対しても呼び捨てにしたり、「君」付けで呼ぶことはなく、終生「さん」付けで呼んだそうです。
 1923年(大正12年)に襲った関東大震災で荒廃した横浜の復興に三溪は力を注ぎました。震災の復旧が一段落すると、園内の茶席で、鈍翁、耳庵、箒庵などの数寄者、靫彦、青邨、古径らの日本画家、田中親美、和辻哲郎、谷川徹三など文化人を招いてたびたび茶事を催しましたが、1939年(昭和14年)8月16日、70歳でこの世を去りました。
 園内の三溪記念館には、三溪に関する資料、三溪自筆の書画、ゆかりの作家の作品や美術工芸品、臨春閣の障壁画などが展示されていて、その事跡をたどることができます。

(2)数寄者としての原三溪
 明治以降、数寄者の世界は井上世外(馨)、益田鈍翁(孝)、原三溪(富太郎)、松永耳庵(安左エ門)と極めて個性豊かなリーダーによって引き継がれてきました。20歳も年長の鈍翁から敬意を表され、7歳年下の耳庵は生涯を通じて先生と呼んで崇敬し師事されたのは原三溪です。
 鈍翁、三溪、耳庵は古美術・茶の湯の世界に限っていえば、血縁よりも濃い肉親であったと評されるほどその交際は親密だったようです。しばしば人を馬鹿よばわりし、“官僚は人間の屑だ”などといって傍若無人の耳庵でさえも、終生、先生と呼んで敬意を表したのは福沢諭吉と原三溪だけだったといわれています。
 古美術・茶道具商の間で、“買い手御三家”は三溪、鈍翁、狸山(團琢磨)といわれ、群を抜くような古画や仏教美術が現れると、まず三溪の住む「横浜にゆく」というのが合言葉になっていて、ここで買い上げられないと、鈍翁、團琢磨、根津嘉一郎などに持ち込むのが順序だったと言い伝えられています。三溪は自分の眼にかなう美術品は、ただ値段を聞いて「置いていって下さい」といって値切ることは一切なかったために、古美術の名品が次々に三溪の元に集まりました。
 「美術とは、すべからく人の心を高尚にする気品あるものでなければならない」というのが三溪の生涯の信念であったようです。鈍翁の蒐集した古美術はおよそ1万点、三溪の蒐集はそれに及ばない約5千点とも8千点とも伝えられていますが質的には最高だったとの定評です。藤原期の仏画の白眉「孔雀明王図」、「閻魔天像」、藤原期の絵巻物の秀逸「寝覚物語絵巻」、「一遍上人絵伝」、「佐竹本三十六歌仙絵巻 小大君」などはその代表するものです。
 1903年(明治36年)に高橋箒庵の口利きで「孔雀明王図」を井上世外から、当時としては破格1万円という大金で三溪が譲り受けた経緯については逸話として伝わっています。また、内苑の完成を記念して1923年(大正12年)4月に三溪園で開いた大師会茶会は大成功を収め、鈍翁にも認められて名実ともに“大数寄者”の仲間入りを果たしました。
(3)文化パトロンとしての原三溪
 三溪は若手芸術家の育成に支援を惜しまず、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」、前田青邨の「御輿振り」など近代日本画を代表する多くの名作がこの園内で生まれ、今村紫紅、安田靫彦、小林古径、速水御舟なども三溪の薫陶と後援を受けています。
 三溪旧蔵の日本画コレクションは、東京国立博物館と大和文華館に数多く収められています。大観、観山、春草、靫彦、紫紅、青邨、小径、御舟、青樹など日本美術院のものが多く、大正時代の近代日本画の傑作はほとんどこれらの三溪園グループから生み出された観があるほどです。
 三溪園には、インドの詩人で哲学者のR.タゴール、アメリカの鉄道王で美術コレクターのC.L.フリーア、奈良・京都を戦火から救ったハーバード大学のL.ウォーナーなど内外の数多くの文化人が訪れ、田中親美、矢代幸雄、田中一松、和辻哲郎など美術関係者が集う古美術研究所があり、文化創造と発展の基地としての多大な役割を果たしてきました。
(4)原三溪の考えた料理
 三溪園のすぐ近くに「隣花苑」という三溪の曾孫(三溪の長女の孫)が経営している日本料理の店があります。静岡県大仁町にあった足利時代の民家を移築したという落ち着いた雰囲気の日本間で、三溪が自信を持って来客に饗したという中華風の三溪麺(さんけいそば)が用意されています。また期間限定で“浄土飯”も夏期の特別メニューとされているようです。“浄土飯”とは、1937年(昭和12年)45歳の若さで急逝した愛息善一郎の供養のための朝の茶会で、三溪が考えた蓮の実の炊き込みご飯を供し、招かれた鈍翁、箒庵、谷川徹三などを感動させたと語り伝えられているものです。
 毎年、8月16日三溪の命日の頃には臨春閣、白雲邸、鶴翔閣の内部が公開され、新緑と紅葉の時期には聴秋閣と春草廬も公開されますので、三溪園を訪れた時に隣花苑で三溪に思いを馳せるのもお勧めのコースです。


 IDE・トピックス 2007.9.20  
美術館、博物館など開催場所のURLを表記しましたので、詳細はそれぞれのホームページをご覧ください。
1.「東北大学の至宝…資料が語る1世紀…」 (東北大学創立100周年記念展示)
 会 期:2007.9.1~10.14
 会 場:両国 江戸東京博物館
     常設展示室5階 第2企画展示室

 入場料:一般 600円(65歳以上 300円) 
 休 館:9/3、9/25、10/9
 問合せ:03-3626-9974
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
 1907年(明治40)に日本で三番目の帝国大学として建学された東北大学の創立100周年を記念した企画展です。東北大学は、狩野文庫や漱石文庫等の歴史・文学資料、河口慧海(えかい)のチベット仏教に関する資料、アンモナイト等の古生物の化石、土偶等の考古学資料、医学標本や植物標本、国宝・重要文化財を含む貴重な資料を多数所蔵しています。この展覧会では“杜(もり)の都仙台”のシンボルである東北大学のこれまでの歩みを紹介するとともに、開学以来蓄積してきた貴重な資料や研究成果を公開いたします。

2.「文豪・夏目漱石…そのこころとまなざし…」(東北大学創立100周年記念展示)
 会 期:2007.9.26~11.18
 会 場:両国 江戸東京博物館  1階展示室
 入場料:一般 1100円(65歳以上 550円)
 休 館:毎週月曜日と10/9(10/1、10/8は開館)
 問合せ:03-3626-9974
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/
 文豪・夏目漱石の生い立ちから文学者としての歩みを、東京にはじめて里帰りする東北大学「漱石文庫」の漱石の旧蔵品をはじめ、自筆の書・絵画、後世に名を残した美術家たちによる初版本のデザイン稿、さらに漱石が暮らした当時の東京の様子を伝える地図、版画、写真などの関連資料も併せた、計800点あまりというかつてない規模でたどります。弟子の小宮豊隆が、太平洋戦争の空襲による焼失を避けるため、漱石最期の住居「漱石山房」から、自らが図書館長を務めていた東北帝国大学(現・東北大学)附属図書館に移動させて奇跡的に残った蔵書約3000冊をはじめとする漱石ゆかりの資料群です。

(注)以上の2つの展覧会は、両国の江戸東京博物館で開かれます。

  9/26から10/14までは同日両方を見学できます。

3.没後170年記念「仙厓 センガイ SENGAI…禅画に遊ぶ…」
 会 期:2007.9.1~10.28
 会 場:丸の内 出光美術館 
 入場料:一般 1000円
 休 館:月曜日(祝日の場合は開館)
  
 問合せ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
 http://www.idemitsu.co.jp/museum/
 リニューアルオープン第一弾の企画展は出光コレクションの原点、仙厓の没後170年の大回顧展です。臨済宗名僧仙厓の遺した水墨作品はきわめてユーモラスかつ自由奔放な作品で、斬新な表現や大胆なデフォルメにより、「楽しくて、かわいい」と感じる不思議な魅力に満ち溢れています。日本最大の質と量を有する出光美術館のコレクションです。昨年、開館40周年を迎えが完了し、9月1日グランドオープンしました。今回はあらたにルオーとムンク専用の展示室を開設し、開館当初よりユニークだった陶片室も全面リニューアルして展示ケースを一新し、陶片ばかりでなく完形品を並べることを想定したスペースを設けています。

4.「景徳鎮千年展」…皇帝の器から毛沢東の食器まで…
 会 期:2007.7.31~9.17
 会 場:渋谷 松濤美術館 
 入場料:一般 300円 (60歳以上 無料)
 休 館:月曜日(祝休日を除く)、
     祝休日の翌日(土・日曜日を除く)

 問合せ:03-3465-9421
 http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/museum/
 中国の江西省景徳鎮は、世界的な磁器の生産地です。唐末五代から青白磁の制作が始まり、北宋時代の景徳元年(1004年)の元号を冠して「景徳鎮」の名前が誕生しました。この頃から白磁、青白磁の生産が本格化し、13世紀末以降、元・明・清王朝の宮廷御用器となってさらに発展し、白磁、染付(青花)、色絵磁器は世界的な名声を博しました。宋時代の官窯の精品、さらに日本初公開となる毛沢東主席のためにつくられた食器や文房具など約130点が展示されます。

.
. 以上

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