平成19年4月20日
古今建物集 …美しい建物を訪ねて…(7)
   
起雲閣…熱海の旧根津嘉一郎別邸…
井出 昭一
  「五輪会」(昭和39年明治生命入社の同期会)の総会が熱海で開かれた機会をとらえ、熱海の三大別荘のひとつで名建築との評価の高い起雲閣(旧根津嘉一郎別邸)を訪ねてみました。

1.脚光を浴びる名建築の宝庫…熱海…
 東京から新幹線で1時間足らずで行ける熱海が、温泉観光地から脱皮して近代別荘建築の宝庫として脚光を浴び始めています。
 明治の初め、伊藤博文、井上馨、大隈重信などの政財界の要人が温泉の湧く温暖な地に着目し、冬の避寒地として滞在したり別荘を建てたりしましたが、明治21年、大正天皇の御用邸が建設されたことを契機として熱海は急速に発展し、冬の間は首都機能がこの熱海に移転したかの様相だったともいわれています。
 東海道線が通る以前、明治政府の“熱海別荘族”は東京から舟で乗り付けていたそうです。鉄道開通前後には、坪内逍遥、尾崎紅葉などの滞在するようになり、谷崎潤一郎、広津和郎、吉川英治、志賀直哉らの文豪も温暖で海の見える魅力に惹かれて住むようになり、政財界、文人などの別荘が建てられるようになりました。
 戦後は首都圏から程よい距離にある温泉地として、団体向けの観光ホテルと会社の保養所が続々と建設されましたが、バブル経済が終焉し、ライフスタイルやニーズの変化につれて、観光客が減少して大型観光ホテルが倒産したり、会社の保養所も急減してきています。かつての男性団体客の観楽指向型から、最近では女性客、グループ旅行の文化指向型に変わってきています。このような状況下にあって、戦前に建てられた豪華な個人の別荘が熱海の新たな観光スポットとして注目され始め、今ではその形態や持ち主は変わっているものもありますが、由緒ある別荘建築を散策する人が増えているようです。

2.内田別邸から根津別邸を経て起雲閣へ
 数多くの別荘のなかで「熱海三大別荘」といわれているものがあります。そのひとつは岩崎別荘(陽和洞)ですが、残念ながら非公開です。また、住友別荘は現存しないため、現在見学できるものは根津別邸(起雲閣)のみです。
 近年、熱海市が観光のスポットとして力を入れている「起雲閣」は、大正から昭和にかけて3人の富豪の個人別荘・旅館を経て、現在は熱海市所有の建物となっています。「起雲閣」の名は、旅館時代に付けられたものです。
 この建物は、大正から昭和にかけて政界財界の両面で幅広く活躍した内田信也が、母親の静養の場所として、1919年(大正8年)別荘を建てたことに始まります。内田信也は第一次世界大戦の戦争景気で財を築き、別名“海運王”とも呼ばれました。大正13年には衆議院議員に選出され、昭和9年には鉄道大臣に就任している政治家でもあります。
 内田別邸として建てられたのは、木造2階建ての和館「麒麟・大鳳の棟」と木造平屋建ての「孔雀の棟」で、ともに1919年(大正8年)の竣工です。
 主屋に当たる1階の「麒麟」は、三方が畳廊下に囲まれた10畳と8畳の和室で、床の間と付書院が配されています。まず驚くことは、目にも鮮やかな群青色の砂壁です。この「加賀の青漆喰」と呼ばれる壁は、旅館になってから、所有者の桜井兵五郎氏が石川県出身のため、地元の技法で高貴な青色の壁に塗り替えられたといわれています。床には田山方南の雄渾な書「龍起雲」が掛けられています。2階の和室は「大鳳」といわれ、時代を感じさせる歪んだガラスを通して風情豊かな庭園が一望できます。
 「孔雀」は当初、「麒麟」と隣接していましたが、2度の移築で現在地に至っています。壁の色は赤茶色で「麒麟」とは感じが全く異なりますが、建築手法、材料などは類似しています。この部屋は舟橋聖一、武田泰淳などの名作が続々と生まれた由緒あるものですが、障子に囲まれた落ち着いた部屋の中で座っているとなぜか良い発想が湧き出してくるような気がします。



3.建築技法の粋を集めた根津別邸
 大正14年(1925年)、初代根津嘉一郎が内田信也から土地・建物を譲り受けて根津別邸としました。初代根津嘉一郎は、東武鉄道の創業者ですが“青山”(せいざん)と号し、益田孝(鈍翁)、原富太郎(三溪)と並ぶ近代数寄者としても広く知られていて、その質の高い茶道具をはじめとする古美術のコレクションは東京青山の根津美術館(現在、改築中)に納められています。
 熱海に根津別邸があると聞いたとき、私は手の込んだ“根津風”の和風の別荘を想定していました。ところがこの予想に反して、根津嘉一郎が熱海に建てた別邸は、英国チューダー様式の洋風建物で和風の茶室とは程遠いものでした。
 昭和4年(1929年)に根津嘉一郎が最初に建てたのが「金剛」で、さまざまな色の石で築いた暖炉があって、それを取り巻く柱や梁は、ダイヤ、ハート、スペード、クラブの模様の螺鈿で装飾され、床、壁、天井など至るところにまで配慮が行き届いています。2槽の風呂を持つローマ風浴室はあでやかな装飾で、玄宗皇帝が楊貴妃のために造った華清池を思い起こさせるに十分な雰囲気を感じさせる浴室でした。

 続いて昭和7年(1932年)に造られた「玉姫・玉渓の棟」も贅を尽くし、技を集めたものです。主室の「玉渓」には石を積み上げた暖炉があって、その上には中国の仏像彫刻が嵌め込まれ、脇には古社寺の柱とも、舟の帆柱ともいわれる丸柱が配されています。太目の柱、筋交いにはチョウナによる名栗仕上げが施されています。「玉姫」では、洋風の暖炉と寄木の床、和風の折上げ格天井(ごうてんじょう)、さらに中国風の欄間と各様式が渾然一体となっています。サンルームの床はモザイクタイル、ステンドグラス天井は、国会議事堂のステンドグラスを造るためにドイツで修業してきた職人の手になるものといわれています。このように、使われている建築材料もさることながら、当時の建築技法の粋を集めたのが根津別邸ではないかと思われます。



4.戦後は、旅館「起雲閣」
 昭和22年(1947年)、大正・昭和にかけて政財界で活躍した桜井兵五郎が、根津家から取得して宿泊用の和室などを増築し、旅館「起雲閣」として開業しました。三島由紀夫が新婚旅行に訪れたり、志賀直哉、谷崎潤一郎などにも愛され、文豪が執筆のため長期に滞在した記録も多く残されているようです。
 平成11年(1999年)に旅館の経営母体が破綻しましたが、市民の保存運動が効を奏して 翌平成12年(2000年)熱海市がこれを取得し、一般公開されるに至った次第です。現在、「麒麟・大鳳の棟」、「孔雀の棟」、「玉姫・玉渓の棟」、「金剛・ローマ風浴室」の4棟と入口の薬医門が熱海市指定有形文化財として登録されています。
 日本の伝統工法による2階建ての和館、ヨーロッパの貴族の館を彷彿させる洋館、旅館に転用したときに建てられた和室など時代や様式の異なる建物が日本庭園を数珠繋ぎのように取り囲んでいます。一歩外に出ると、車の往来する通りですが、根津嘉一郎が自ら指揮して運ばせたという「根津の大石」の鎮座する庭園を歩いていると、緑も豊かでとても熱海の街中とは思えない雰囲気です。


5.訪ねてみたい「旧日向別邸」  

 熱海市はこの「起雲閣」に続き、「旧日向別邸」も取得して、2005年から一般に公開(予約制)しています。これはドイツ人建築家ブルノー・タウトが設計した日本でただひとつ現存する建物で重要文化財に指定されています。タウトは、桂離宮と伊勢神宮の建築の美しさを初めて評価したことでも知られ、日本の文化を愛し「日本美の再発見」の名著も残しています。「旧日向別邸」は熱海駅からもさほど遠くない相模湾を望む高台にあります。ちょっと判りにくいところで車では行けませんが、「起雲閣」とともに、一度は訪ねたいところです。
(内部は撮影禁止のため、参考までに外部の写真を紹介します。)


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①「起雲閣」(熱海市指定・有形文化財)
 開館時間:9:00~17:00
 休館日: 水曜日(祝・祭日は開館)
 入館料: 大人 500円
 アクセス:熱海駅から徒歩20分
 問合せ:0557-86-3101
②「旧日向別邸」(国指定・重要文化財) 
 開館時間:9:30~16:30
 開館日:土・日曜日、祝祭日
 入館料:大人 300円
 見学条件:予約制、開館日に1日6回、定員は1回10名
 アクセス:熱海駅から徒歩8分
 問合せ:0557-86-6232(熱海市役所文化交流課)


IDE・トピックス 2007.4.20 

美術館、博物館など開催場所のURLを表記しましたので、詳細はそれぞれのホームページをご覧ください。

1.「ブルーノ・タウト展」…アルプス建築から桂離宮へ…
 会 期:2007.2.3~5.27  11:00~19:00(水曜日は21:00まで)
 会 場:神宮前 ワタリウム美術館
 入場料:一般 1000円
 休 館:月曜日
 問合せ:03-3402-3001
 http://www.watarium.co.jp/
 桂離宮を再発見したドイツの建築家ブルノー・タウトの建築思想・理念をはじめ、建築・工芸に関する170点の資料などが公開されています。入場料の1000円(一般)を支払えば、会期中何度でも使えるというパスポート制チケットを導入した珍しい方式の展覧会です。

2.「岡部嶺男展…青磁を極める…」
 会 期:2007.3.6~5.20
 会 場:北の丸公園 東京国立近代美術館・工芸館 
 入場料:一般 800円
 休 館:月曜日
 問合せ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
 http://www.momat.go.jp/
 陶芸家・加藤唐九郎の長男として瀬戸に生まれ、幼少の頃から陶磁器に親しんで、織部、志野、黄瀬戸、灰釉、鉄釉など地元の陶芸技法を極めた上に、「嶺男青磁」といわれる格調高い独特の作品を生み出しました。その独創性に富んだ初期から晩年までの作品約170点が一堂に展示される大規模な回顧展です。

3.「山種コレクション名品展」…開館40周年記念展…
 会期:前期 2007.4.21~6.3
    後期 2007.6.6~7.16
 会場:三番町 山種美術館
 入場料:一般 800円 
 休館:月曜日
 問合せ:03-3239-5911
 http://www.yamatane-museum.or.jp/
 近代日本画のコレクションで有名な山種美術館が早くも40周年を迎えて開催する記念展です。4点の重要文化財をはじめ多彩な日本画のコレクションが、前期・後期の2期に分けて一挙に公開されます。開館時は、茅場町の山種証券ビルの中にあり、分厚いカーッペトが敷かれた静かな雰囲気が気に入って、何回も通った美術館ですから、懐かしい日本画の名作に再会できるのを楽しみにしています。
4.「琳派…四季の“きょうえん”…」
 会 期:2007.4.3~6.10
 会 場:白金台  畠山記念館
 入場料:一般 500円 
 問合せ:03-3447-5787

 畠山記念館は荏原製作所を創業した畠山一清(即翁)が収集した茶道具がその中核となっています。同館が所蔵する尾形光琳、俵屋宗達など琳派の絵画、陶器、漆工品など約60点が展示されます。開館当時、豊かな髭を蓄えた畠山翁が2階の茶室の近くに座って見守っていた姿が思い出されます。
 http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/index.html
(了)

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