MyMuseum東京国立博物館「柳緑花紅」(改訂版)
平成18年7月20日
東博の庭で舞う蝶・中で舞う蝶
    井 出 昭 一
 相変わらず蒸し暑い日が続いています。前回は、東博を離れて涼しい話題をとりあげました。今回は、いきなり東博に戻るのではなく、蝶の話から初めて、徐々に東博に入ってゆきます。
憧れのアオスジアゲハとの出会い
 数年前の5月中旬、それまで荒れ狂ったような天気が一転して穏やかになった晩春の一日のことです。思いがけない光景に遭遇することができました。法隆寺宝物館の池の手前にあるベニシタンの植え込みにアオスジアゲハが群れを成して飛び交っているではありませんか。50年前の私なら、これは夢心地だったでしょう。
 信州・佐久での私の中学3年間は「蝶少年」でした。蝶に惹かれ蝶に没頭した3年間でした。その当時、佐久地方で私が採集できたアゲハチョウ科の蝶は、アゲハチョウ、キアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、クロアゲハ、オナガアゲハ、ジャコウアゲハ、ウスバシロチョウ、ヒメウスバシロチョウでした。天然記念物に指定されていたミカドアゲハ(高知県)、ウスバキチョウ(北海道)、ギフチョウを初めヒメギフチョウなどは望めない蝶で、モンキアゲハ、ナガサキアゲハなどの南方系のアゲハもとても信州では採集できない蝶でした。関東に棲息していても信州にいない蝶はこのアオスジアゲハだけだったのです。
 “帝王”の名前をもつミカドアゲハとそっくりの羽の形で、鮮明な青空のような澄み切った色の帯のあるアオスジアゲハは、私にとってまさに「高嶺の蝶」、手の届かない蝶、憧れの的でもありました。
 ところが、ある日、びっくりするような事が起りました。私の蝶仲間のひとりが、なんとアオスジアゲハを採って私に見せてくれたのです。羽は多少痛んで鱗粉が薄らいではいるものの紛れもなくアオスジアゲハでした。多分、台風の強い風に乗せられて関東から信州に吹き飛ばされて迷い込んできたひとつだったのでしょう。
 それからというもの、ライバルの蝶友達がアオスジアゲハを採ったという場所に毎日通い詰めたのですが、ついに採ることはできませんでした。というよりは、3年間にアオスジアゲハが舞っている姿すら出会うことはなかったのです。ですから、私にとって、アオスジアゲハはまさに幻の蝶だったのです。
 蝶少年から脱皮して、還暦を過ぎたとはいうものの、群舞しているアオスジアゲハに出会うことができて、これが50年前だったら、どれほど興奮したでしょうか。東博とは、美術品以外でも懐かしい思い出を甦らせてくれるところでもあったのです。
鮮やかなオオムラサキの青紫
 アオスジアゲハに出会ってから1ヵ月後、東博のボランティア仲間のひとりから、軽い箱の入っている紙袋をいただきました。なんと、中身はオオムラサキの「さなぎ」2体でした。
 オオムラサキは、日本の国蝶で切手(40円)にもなっているタテハチョウ科の最大の蝶で、羽根を拡げると7〜10センチほどになります。その羽根の青紫色は、写真とか印刷ではとても表現できない、鮮やかで奥深い色なのです。
 かつて、わが国では朝臣の公服の階級色を「衣服令」で定め、その最高位は「深紫(こきむらさき)」でした。平安時代には単に「こき」と呼ばれ、色の中の色として別格視され、高貴の人でなければ使用できない禁色だったとのことです。参考までに、英語名は、Deep Royal Purple(帝王紫)。こうしたことから、日本では、オオムラサキが「蝶の帝王」として、国を代表する「国蝶」として選ばれたのでしょうか。
 このオオムラサキも、実はアオスジアゲハと同様に「蝶少年」にとっては、憧れの蝶だったのです。オオムラサキは高いクヌギの梢に止まっているので、幹をゆすったり、砂を投げかけると、驚いて舞い上がり高いところを旋回するのですが、少年の捕虫網の届くところには決して降りてこないのです。そのためオオムラサキも文字通り「高嶺の蝶」で「手の届かない蝶」でした。
 さなぎを持ち帰った翌朝は、いつもより早く目覚めてしまいました。「2〜3日で羽化しますよ」といわれてはいたものの、もしかしたらと思ったからです。その予想がみごと的中しました。一つが羽化していたのです。夢にまで見たオオムラサキです。羽化した直後だったのでしょうか、最初は羽根を閉じてジッとしていました。しばらく見つめているとわが家のオオムラサキはゆっくりと羽根を拡げました。紛れもなくあの青紫に輝く高貴な蝶の完全無垢の姿が目の前にあったのです。
 人の手で作った最高の色が曜変天目茶碗の色だとすると、オオムラサキのこの羽根の色は自然のなした最高の色といえるでしょう。ゼフィルス(ミドリシジミの一群)の羽根の色もすばらしいものですが、オオムラサキの羽根の色も最高の色彩だと思っています。
東博の中で舞う蝶
 アオスジアゲハと東博は無関係なことと思い込んでいたのですが、なんと、大いに関係あることがわかりました。
 アオスジアゲハアゲハチョウ科の蝶アゲハチョウ(別名:ナミアゲハとも呼ばれます)→円山応挙「蝶写生帖」に描写東京国立博物館所蔵品というようになるわけです。
 円山派の祖である円山応挙は、画期的な写実主義を基礎として日本絵画史のうえで独自の画風を創造したといわれ高く評価されています。応挙は、動植物の写生を最も得意とし、「蝶写生帖」や「昆虫写生帖」を残し、この「蝶写生帖」には、27種の蝶が描かれていて、そのうちのナミアゲハ(アゲハチョウ)は、夏型の雄を表面と裏面を極めて忠実に描写しているとのことです。蝶はその種類により、春型、夏型というように季節型があって、両者の違いは様々です。
アゲハチョウの場合、春型は全体に形が小さく、華奢でなんとなく弱々しい感じですが、夏型の方は、春型より一回り大きく、がっちりしています。また、雌雄の区別は蝶の種類により明白なものと、一見したのでは判別できないものがあります。
 私でも直に雌雄の区別ができるものは、シジミチョウ科のゼフィルス(ギリシャ語でそよ風という意味。すばらしい命名で、私の最も好きな一群の蝶です。)と呼ばれるミドリシジミのグループです。雄の羽根は、金と青を混ぜた色、金緑色とでもいうのでしょうか、あるいは銀と緑を混ぜた色、輝くような青緑で適切なことばが見当たらないような華やかな色です。これに対して雌は、黒とか茶系統の暗く落ち着いた色ですから誰にもわかります。
 アゲハチョウは、春型、夏型の区別はつきますが、私には雌雄の判別がつきません。応挙はその判別がわかるほど忠実に描いたとされていますので、東博蔵の「蝶写生帖」を何とか拝見したいものです。ということで、アオスジアゲハと東博がつながってしまったのです。
 また、文様としての蝶という観点から、陶磁、漆工、染織等を調べてみますと東博にはいろいろなものがあります。
 一見、関係ないと思われるものが繋がってしまうところ、それが東博です。東博は本当に不思議なところです。そこになんともいえない魅力があります。

本館は蝶の“宝庫”…図案化された蝶が群舞
 東博の庭には様々な蝶が飛んできます。しかし雨の日は蝶も舞ってきません。そこで、ある大雨の一日(2003815日)、東博館内にどの位の蝶が舞っているのか調べてみました。
 東博全館(全展示室)で、蝶の文様の展示品は18件ありました。日本では蝶の文様が古くから愛好されていたようで、中国の陶磁に龍、蝙蝠、魚が多く登場するのと比較して、やはり日本的な感じです。その内訳は、本館17件、東洋館1件で、平成館、法隆寺宝物館はゼロでした。やはり本館は蝶の宝庫です。本館の17件をさらに見ますと、1階が7件、2階が10件でした。
 館内で舞っている蝶(描かれている蝶)の数を集計しようと数え始めてみましたが、壺など作品の裏側の見えない部分に描かれた数が分かりませんので諦めました。多分、30以上は間違いないでしょう……
 蝶はその自然の姿が最も美しいと思いますが、東博の蝶はその殆どが図案化されていて、残念ながら自然の姿と程遠い感じです。中には「蝶」として表示されていても、明らかに蛾と思われるものもあり、蝶少年にとっては本当にガッカリしています。
 私は、蝶は好きでも蛾は大嫌いなのです。速水御舟の「炎舞」(山種美術館蔵)は近代日本画として重要文化財にまで指定されている名作ですが、蛾が描かれているゆえに好きになれない作品です。炎に群がる蛾の一群を御舟が克明に描いているからです。蝶の中には、限りなく蛾に近いものもありますが、蝶と蛾は全く違うものです。蝶をあまりにも図案化してしまうと、蝶なのか蛾なのか区別がつかなくなってしまいます。したがって蝶の種類をとても特定できません。「炎舞」の画も、図案化してしまえば好きになったかもしれません。東博内18件のうち自然のままその姿が表現されていて、はっきりと種類の判別できるのはただ1件のみでした。それは、鏑木清方筆の「黒髪」(4曲1双の屏風)に描かれたカラスアゲハです。
 外は雨天でも東博館内では蝶がたくさん舞っています。東博は常に展示品が変わります。現在ではまた別の蝶が飛び交っているはずです。ご興味のある方は、探してみてください。意外なところに意外な蝶が潜んでいるかもしれません。
IDE・トピックス No.13( 2006.07.20)
1.特別展「若冲と江戸絵画展」…プライス・コレクション…
 会 期:2006.7.4〜8.27
 会 場:上野 東京国立博物館 平成館
 観覧料:一般 1300円
 問合せ:03-5777-8600
 伊藤若冲、長沢芦雪など、個性的な江戸絵画に早くから注目し、アメリカのプライス夫妻が独自の鑑識眼で蒐集した600点のコレクションのなかから、101点を展示しています。酒井抱一、鈴木其一などの江戸琳派の作品や肉筆浮世絵など、外国人の選んだ個性豊かな作品も並んでいます。会場の1室は、ガラスケースを用いず、様々なライティングにより、絵画が光によって表情を変えるというプライス流の斬新な展示を取り入れています。
 平成館だけではなく、本館にも立ち寄って比較してみてください。2階には江戸時代の絵画と浮世絵が展示されています。
















2.「ルーヴル美術館展」…古代ギリシャ芸術・神々の遺産…
 会 期:2006.06.17〜8.20
 会 場:上野 東京藝術大学大学美術館
 観覧料:一般 1300円
 問合せ:03-5777-8600
 ルーヴル美術館から134点の古代ギリシャ芸術が上野にやってきます。そのうち132点が日本初公開です。門外不出だった「アルルのヴィーナス」を初め、等身大の大理石彫刻、墓碑、陶器、工芸品など豊富な内容で、ギリシャ文明を堪能できます。
 藝大美術館(東京藝術大学大学美術館が正式名称でが、なんとも長たらしい名前なので略称にします。)にゆきましたら、まっすぐ帰らず、周りの構内を散策してください。ロダンの名作バルザック像、青銅時代を初め、平櫛田中の岡倉天心像と沼田一雅の正木直彦先生像(陶造)の全身像、さらに橋本雅邦、川端玉章、高村光雲、藤島武二、安井曽太郎……などの胸像などが林立しています。そこは、まさに近代彫刻の屋外展示場でもあります。さらに絵画棟1階の大石膏室をガラス越しに覗けば、国内では質量とも最も優れているといわれる石膏群を見ることもできます。

       以上