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平成25年3月3日(日)
 “病臥雑感”(11)の「長恨歌と白楽天の物語」を書き終わった後、一点書き忘れたことに気付きました。「長恨歌」の最初の部分に登場する「華清池」(かせいち)を訪れたことを書くべきだったということです。
 華清池のみについて書くのではあまりに短文に終わってしまいますので、かつて敦煌・西安を旅行した時の写真と関連資料などを手掛かりに当時を思い出しながら懐かしい旅行記をまとめ、“病臥雑感”の最終回とすることにしました。
 連載中、多数の皆様から感想や貴重な情報をいただき、入院中の私にとって励ましとなり、元気づけられることになりました。改めて御礼申し上げます。
 個別にお返事申し上げなければならない方には失礼しておりますが、今しばらく時間をいただきたくご容赦のほどお願い申し上げます。
 退院後、早くも1カ月を経過し病状の経過は好転しているとはいえ、自宅で抗がん剤を服用しながら静養中の身には変わりありません。世間の雑事もあって、入院中ほどの時間的余裕はありませんが、引き続いて“さわらび閑話”とでも題して、思い付くテーマを元にして締切に拘束されることなく適時書き続けたいと思っているところです。ご意見、ご感想などお寄せいただければ幸いです。
病臥雑感(12)
「華清池」訪問記
                         “和楽備の一閑人” 南山翠春
(井出昭一)
1.同期会“五輪会”の中国旅行
 昭和39年(1964年)に私は丸の内で会社生活をスタートしました。東京オリンピックが開催された年でしたので、“五輪会”と称する同期が結成され、在職中はボーナス時に定期的に資金を積み立てて旅行をしたり、退職後の現在でも旅行、グルメの会、ゴルフコンペ、展覧会見学、建物散策などそれぞれ世話役を決めて頻繁に集まって懇親を深めています。
 平成8年(1994年)8月に、“五輪会”は入社30周年を記念して北京・上海・蘇州の旅を企画しました。西安の華清池を訪ねたのはこの時ではなく、2回目の中国旅行として平成12年(2000年)8月の「西安・敦煌6日間の旅」のときです。いずれも8月ですが、なぜ8月かというと、まだ現役中であったため会社を支える主力社員(?)20名弱が同時に休むのはお盆の頃以外は難しかったからです。参加希望者はそれぞれ各所属内で6日間の休暇を取ることの事前の了解を取り付け、幹事役は参加者名簿を人事部に呈示して内諾を得るなど“並々ならぬ事前の努力の結果”実現できた海外旅行だともいえます。
 幸い幹事役の一人が、旅行関係の関連会社に派遣されていましたので、われわれの希望を充分に組み込んだ中味の濃いオプション旅行ができました。

2.上海・西安を経由して敦煌へ
 当時、成田から西安への直行便はありませんでしたので、8月12日に上海まで行き、中国の国内線に乗り換えて西安のホテルに22時30分に着きました。
 翌日早朝、敦煌に向かう飛行機は小型機のため、トランクを機内持ち込みができないことが判明し、敦煌滞在2泊3日分の荷物を急遽整理して一つのリックに詰め替えなければならなくなり、睡眠不足のまま降り立った敦煌空港の真夏の日差しがあまりにも強烈だったことが印象的でした。

 シルクロード華やかな頃の中国の西の玄関として栄えていた敦煌にようやく足を踏み入れ、嬉しさ一杯の初日はバスで陽関を訪ねた後、鳴沙山、月牙泉を巡り歩きました。
敦煌空港
 真夏の太陽が照りつけるなか、はるばる砂漠の中の陽関を訪ねたのは“もの好きな”われわれ一行のみ。陽関は荒涼たる砂漠の一角に、のろしを挙げた烽火台跡だけがぽつんと残っていていました。ここで詩吟を得意とする仲間のひとりが王維の創った有名な別離の詩を朗々と歌い上げたことは、場所としてこれほど適したところはなく今でも忘れることはできません。

渭城の朝雨 軽塵を浥し
客舎青々 柳色新たなり 陽関
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西の方 陽関を出ずれば故人無からん

 西に旅立つ友に対して、この先には親しい友人はいないのだ。君!とにかくもう一杯酒を飲んで別れを惜しもう。そんな思いが胸に迫った陽関跡の懐かしい思い出でした。

 午後は鳴沙山を訪ねました。風が吹いたり、人が滑り下りると砂が擦れ合って音を発するので“鳴沙”という名がつけられたという。ラクダに乗って月牙泉へ向かいました。ラクダは予想以上に大きく、立ち上がるときにしっかりと腕で支えていないと振り落とされるとの忠告に従って乗り、温厚なラクダの背にゆられながら寸時の砂漠の旅を体験することができました。周囲を砂漠に覆われていながら年中枯れることのない水が湧き出ている三日月型の月牙泉も不思議な光景です。砂丘が作りだす鳴沙山の稜線は、とくに夕刻が美しいといわれるだけあって見事な曲線は今でも脳裏に焼き付いています。


鳴沙山
鳴沙山とラクダ

3.砂漠の中の巨大仏教美術館「莫高窟」  
 敦煌2日目は、莫高窟の石窟を楽しみました。莫高窟は“砂漠の大画廊”といわれていますが、画廊ではなく“巨大な仏教美術館”だと思っています。残されている仏教遺産は建築、塑像、壁画、文書と広範に及び、塑像は2400体以上、最大のものは高さ33m、壁画を並べると4万5000㎡にも達すると云われています。
 20世紀初頭に発見されて以来、イギリスのスタイン、フランスのぺリオによって塑像や壁画が大量に国外に持ち出され、遅れてやってきたロシアのオルデンブルグ、アメリカのウォーナーは壁画をはがし取ったり、塑像を取り外して持ち帰ったとも云われています。ウォーナーは、第二次大戦中、奈良や京都を連合軍の爆撃対象から除外するよう進言したことで日本では戦災から救った恩人ですが、中国では恩人どころか文化の破壊者、掠奪者として批判されているのは事実のようです。

莫高窟入口
莫高窟

4.西安初日:憧れの“碑林”で感激
 西安はかつて長安と呼ばれ、中国隋・唐の古都であると同時にシルクロードの東の出発点、東西文化が交流する世界最大の国際都市として繁栄を謳歌したところです。現在でも市の中心部は明代に造られた四角の城壁と濠に取り囲まれています。
 安定門(西門)を訪ねた後、西安のシンボルとなっている大雁塔に登りました。大雁塔は慈恩寺の境内にそびえたつ高さ64mの7層の塔で、最上部に登ると西安市街の四方を眺望することができました。



安定門闕樓 安定門(西門)


大雁塔 大雁塔から南方眺望

 私が西安で最も期待していたのは陝西省博物館の「碑林」です。碑林は中国の漢代から清代に至る石碑が1000基以上も林立する書の宝庫です。“書聖”の王羲之をはじめ顔真卿の「顔氏家廟碑」、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」などの多数の碑が保存されています。入口近くには玄宗皇帝の直筆の碑もあり、幸いにも黄庭堅の碑の拓本を取っているところも見学することができました。本当はもっと時間を掛けて見学したかったのですが、団体旅行ゆえそれもできず駆け足でしか見られなかったのは残念なことでした。

碑林集合写真

王羲之

欧陽詢
黄庭堅拓本制作

5.西安2日目:華清池の楊貴妃湯殿を訪問
 西安2日目はいよいよ玄宗皇帝と楊貴妃の舞台となった華清池に行きました。華清池は秦代から続く温泉地で、玄宗皇帝はここに華清宮を築き、楊貴妃と華やかな宴を繰り広げました。白楽天が長恨歌で華清池を詠んだ有名な部分です。

春寒賜浴華清池   春寒くして浴を賜う 華清の池
溫泉水滑洗凝脂   温泉 水滑らかにして 凝脂に洗ぐ

 玄宗皇帝の使った湯殿は「蓮花湯」として、楊貴妃の湯殿は「海棠湯」として復元され、一般に公開されています。中国の3大美女の楊貴妃に縁ある温泉地として今でも中国女性の人気を集めているようです。
 長恨歌を読む際に、こうした現地の状況を見てから読むのと、見ないまま読むのとでは受け取り方に大きな違いがでてくるのではないかと思い、良い経験になりました。



華清池

玄宗皇帝湯殿



楊貴妃湯殿
楊貴妃湯殿海棠湯
 旅行の最後に訪ねたのは兵馬俑です。世界的な遺跡の兵馬俑坑が発見されたのは1974年の春だと云われていますのでまだ最近のことです。秦の始皇帝の陵墓を守る大軍団の兵馬俑は8000余ともいわれ、発見現場が巨大なドームで覆われて博物館となっています。
 私達が訪ねた時には博物館の中に、最初の発見者である楊志発氏が座っていて、図録を購入すると署名をするというので「秦の始皇帝の地下軍団」(日本語版)を買い求めました。博物館の別棟には、銅車馬の特別陳列室があり、発掘された銅車馬が飾られていました。



兵馬俑博物館

兵馬俑1



兵馬俑2
銅車馬

6.成田では思い掛けないお土産
 充実した「西安・敦煌6日間の旅」では、盛り沢山の計画と各地での豪華な酒宴にも拘わらず、会計幹事の行き届いた経費管理の結果、出費が予定を大幅に下回り、思い掛けないほど多額の返戻金が給付され、参加者一同感謝感激のうちに無事に旅を終えることができました。
 各地で飲んだ茅台酒や紹興酒は美味しく飲めましたが、ビールはいずれも決して美味しいとはいえませんでした。帰宅後、蒸し暑い自宅で飲んだ日本のビールのおいしかったこと、久しぶりに懐かしい味に出会うことができ、直ぐにお代わりをしたほどです。
 この旅に参加した同期の17名のうち残念ながら一人が亡くなってしまいましたが、これからも五輪会で顔を合わせる都度、2回にわたって楽しんだ中国旅行談義を続けて行きたいものです。
 (2013.3.4)

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