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送り状   平成25年2月24日
退院して早くも1カ月が経過しました。まだ自宅静養中の身ですが、痛みや副作用は影をひそめ、目下、平穏な毎日を送っています。運動不足解消のための自宅内清掃も一段落して、時間的にも余裕が出てきましたので、“病臥雑感”(11) 「長恨歌」と「白楽天」の物語(後編)をお届します。
 何人かの方から”病臥雑感”を別の名前に変えたらどうかとのご提案がありますので、閑に任せて検討中です。とりあえず次回までは”病臥雑感”とします。
 なお、関係する写真を8枚添付しますが、文章の段落の数字と写真の数字は合わせてありますので照合していただければ幸いです。

病臥雑感(11)
 「長恨歌」と「白楽天」の物語(後編)
“和楽備の一閑人” 南山翠春
(井出昭一)

1.文学の世界での白楽天
 数多くの中国の詩人の中で、白楽天ほど日本人に長く広く深く親しまれてきた詩人はいないのではないかと思います。白楽天の詩は平安時代に日本に伝来して以来広く愛読され、日本の三大随筆といわれる枕草子、徒然草、方丈記にも登場しています。
 教科書にも取り上げられて有名な清少納言の『枕草子』の第280段には、白楽天の歌の一部が紹介されています。
 『雪のいと高う降りたるを例ならず 御格子参りて炭櫃に火おこして、物語などして 集まり候ふに、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ人々も、「さることは知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほ、 このの人には、さべきなめり。」と言ふ。』 
 これは清少納言が中宮定子の意を察知して直ちに御簾をあげさせたという、いわば清少納言が機転を利かせたという自慢話ですが、中宮定子と定子に仕えていた女房たちの間で、白楽天の「香炉峰の雪」の歌がすでに広く知れわたっていたということを物語っている証拠でもあります。
 この詩は私が白楽天と初めて出会った詩ですが、今でも大好きな詩です。

 香炉峰下 新たに山居を卜し草堂初めて成り 偶東壁に題     白楽天

日高く睡り足りて 猶 起くるに慵(ものう)し
小閣に衾を重ねて 寒さを怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聽き
香鑪峯の雪は 簾を撥(かかげ)て看(み)る
匡廬(きょうろ)は 便(すなわ)ち是れ名を逃がるるの地
司馬は仍(な)お 老を送るの官たり
心泰(やす)く身寧(やす)きは 是れ帰する処(ところ)
故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや

 香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁    白楽天

日高睡足猶慵起
小閤重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香鑪峯雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷可獨在長安
 また『徒然草』の第13段は、兼好法師が好んだ書物として白楽天の詩文集「白氏文集」が紹介されている一段です。兼好は“中国もの”に憧れていて、同時代の日本のものを評価していないという興味深い段でもあります。当時「文集(もんじゆう)」といえば「白氏文集」を指すといわれるほど広く愛読されていたようです。
 「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。」

2.書跡の世界での白楽天
 白楽天の詩は、文学の世界ばかりか書の世界でも名筆が残されています。その頂点に立つのは国宝の藤原行成筆「白氏詩巻」です。これは東京国立博物館に収蔵されていて本館2階の「国宝室」に展示されることがありますので、展示期間中であればゆっくり鑑賞することができます。

 藤原行成(972-1027)は、小野道風、藤原佐理とともに「三跡(さんせき)」と讃えられた能書で和様の書を完成し、のちに和様の主流となる世尊寺家(せそんじけ)の始祖に当たります。作品は、巻第65のうちの8篇の詩を薄茶・赤紫の染紙を含む9枚継ぎの巻物に、草書と行書をまじえた行成47歳の筆跡で、洗練されて格調高い書風であると高く評価されているものです。巻末には行成自身の奥書と、保延6年(1140)に世尊寺家第5代の藤原定信がこれを購入したという跋(ばつ)が記され、紙背の継ぎ目には伏見天皇の花押があり、天皇遺愛の品であったことを表わしています。
 国宝でも重文指定でもありませんが、私の好きな松花堂昭乗(1584-1639)の「長恨歌」も東京国立博物館が所蔵し、2階の8室で展示されることがあります。松花堂昭乗(滝本坊昭乗)は、近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」といわれた能筆で、この書は慶長19年(1614)、松花堂昭乗が近衛信尋(のぶひろ)の命を受けて書いた畢生の力作で、その序文と本詩の冷静沈着な筆致は松花堂昭乗を代表する名筆ともいわれているものです。

3.松花堂昭乗の「長恨歌」流転の秘話
 この名品「長恨歌」一巻はその所有者が、近衞家→高橋箒庵→岩原謙庵→益田鈍翁を経て現在、東京国立博物館の収蔵品となっていますが、その流転の裏には次のような興味深いドラマが展開されていたのです。

 大正7年(1818)4月5日、高橋箒庵の蔵品入札会で岩原謙庵が、この巻を3129円で落札しました。じつは、弘法大師の流れを汲む松花堂の書跡にご執心だった数寄界の大御所・益田鈍翁は、元近衞家所蔵のこの名品の入札会を実弟の益田紅艶に委託し落札間違いなしと踏んでいたのですが、鈍翁の指値よりわずか10円高い価額で謙庵の手に落ちてしまいました。謙庵にしてみると、この道へ先導した大先輩の鈍翁を僅少差で出し抜いたことで得意満面でした。
 ところが、それから一ヶ月もしないうちに、謙庵がようやく手に入れたこの名品を鈍翁に渡さなければならないような“珍事件”が起きたのです。それは、同年4月29日、品川御殿山の鈍翁邸内の為楽庵で住友総理事の鈴木転庵(馬左也)を正客とする茶会が催され、謙庵も次客として同席したときのことです。
 茶席での話題がたまたま松花堂昭乗の「長恨歌」に及び、先の入札会での経緯を知らない相客の大口周魚(本名は鯛二、歌人・書家、「本願寺本三十六人家集」の再発見者)が「松花堂の墨蹟中の圧巻」だと激賞したので、謙庵は内心では大得意の反面、鈍翁は苦りきった顔つきだったようです。
 茶事が終って道具拝見の際、当日使われた本阿弥空中作の挽臼形水指「銘 園城寺」の蓋を謙庵が誤って落として割ってしまったのです。大きな透かしを開けたこの共蓋は、水指の本体との合口が僅かで、置く場所によっては内側に滑り落ちる危険のあるものだったようです。茶席、それも厳粛な小間で、大切に扱われている茶道具を不注意で割ってしまうとは、通常ではありえないことです。謙庵は先輩の鈍翁に睨まれて顔面蒼白。相客も咄嗟のことで発することばもなく、茶室内に重苦しい空気が漂いました。
 このとき、機転に富んだ鈍翁の実弟の紅艶が「割れてしまったものは仕方が無い。あの長恨歌の一巻を、只とはいわぬ入札原価そのままで、潔く鈍翁に譲ったらどうでしょうか。」と、謙庵に対して助け船を出しました。これは落札に失敗した恨みの残る紅艶の巧妙な名品召し上げ策だったのです。謙庵は平身低頭の折から「それですむのなら」と不承々々これの提案を了承し、茶席内にようやく安らいだ雰囲気が蘇りました。
 すると、紅艶は色紙と筆を求め、一気に書き上げたのです。

    空中でテッペンかけたほととぎす

 ほととぎすの「テッペンカケタカ」という鳴き声が聞こえてきそうな春の宵。空中斎の水指の破損との気のきいた掛け言葉に”さすがは数寄者だ”と一同が感心していると、今度は亭主の鈍翁が筆を取って、下の句を添えました。

    長き恨みの夢や覚むらむ

 鈍翁にしてみれば、長年の夢がようやく叶って現実のものとなったのです。一方、謙庵にして見ると、せっかく手に入れた松花堂の名筆を、一ヶ月を待たずして鈍翁の手に譲り渡すことになってしまったわけです。
 とにかく、本来なら茶会がブチ壊されそうな重苦しい空気の中でも、咄嗟の判断で歌が飛び交わされて和やかになるという数寄の世界があったことは素晴らしいことだと思っています。

4.空中の水指破損の後日談
 これには、さらに後日談があります。この空中水指破損事件の後、しばらくして鈍翁から高橋箒庵に6月6日御殿山の幽月亭での茶会の誘いがありました。その席に、箒庵が予想していた例の空中の水指が登場したのです。”何でも鑑定団”の面々が足元にも及ばないほどの鑑識眼の優れている箒庵が、水指に近寄ってどこから眺めて見ても、過日、謙庵が破損したという痕跡は全く見当たりません。不思議に思った箒庵が、割れた共蓋はどうしたのかと尋ねたところ、席主の鈍翁はさりげなく「近来の修復技術はすばらしい。破損した痕跡を留めないほど精妙な修復は驚くばかりである」との一言。
 これを後で耳にした謙庵は、それならあの時あわてて「長恨歌」を譲り渡す事はなかったと悔やんだといわれますが、後の祭り。謙庵のこの恨みは以後も綿々と続いたことでしょう。所持者の伝来を重んじる茶道具ですから、たとえ一ヶ月弱とはいえ謙庵が所有した事は事実です。したがって松花堂の名筆伝来には、近衞家→箒庵→謙庵→鈍翁と、謙庵の名前は二人の大数寄者の間に残っていることは確実です。

5.護国寺に仲良く眠る3数寄者(鈍翁・箒庵・謙庵)?
 ところで謙庵の本名は岩原謙三。芝浦製作所(現在の東芝の前身)の社長、NHKの初代会長をも務めた正真正銘の財界人です。鈍翁の手ほどきで数寄の世界に入ったのですが、前述の水指破損事件をはじめ、茶席内で数々の珍事を巻き起こした数寄者(?)としても知られています。
 明治から昭和にかけて益田鈍翁を中核とする数寄の世界では、最初は師弟の関係であったものが、その後、入手したい茶道具の入札に際してはライバルとなり、道具が一件落着すると今度はその道具を取り合わせて茶事を開いて懇親をさらに深めるという交遊が続けられたといわれています。
 録音テープやVTRのなかった時代の茶会の状況を現在でも詳しく知ることができるのは、箒庵の残した「東都茶会記」「大正茶道記」「昭和茶道記」の克明な記録のお蔭です。箒庵はこの他、大著「大正名器鑑」を著したほか、護国寺に茶室を集めて茶道の本山にしようと試みる一方、多宝塔や名物灯籠を寄進するなど護国寺の支援に勢力を傾注され、本人も護国寺の墓地に静かに眠っています。
 じつは、益田鈍翁も岩原謙庵も墓は護国寺ですから、鈍翁、箒庵、謙庵は死後も同じ墓地で茶道具について喧々諤々話し合っているのではないかと私は頭の中で思いを巡らしているところです。




(蛇足)   白楽天の名詩「香炉峯峰下 云々」の替え歌 (2012.12.4作)

 膵臓ガン治療のため
 初めて放射線照射を受けた日に偶々詠める     南山翠春

日高く睡り足りて更に眠ること出来ず
病室は衾を重ねずして寒さを怕(おそ)れず
バッハとモーツアルトはウォークマンで聴き
スカイツリーと東京タワーは病窓から眺める
病室は便(すなわ)ち是れ名を逃がるる場所
放射線治療は病を治す最新の術
心泰(やす)く身寧(やす)きは是れ帰する処
愉楽は何ぞ独り俗世間にのみ在らんや           
 (2013.2.24)

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