高島靖男のインド日記
インドに行くことになったわけ
 わたしは1986年4月から1991年3月まで米国カリフォルニア州に生命保険販売のために駐在いたし、会社生活の中でも特別に印象に残る5年間でした。1991年3月帰国するときにもう一度、米国で仕事をしたい、と強く思いました。何時米国に戻るか、ということは決めていませんでしたが、漠然と定年後?と思っていました。
 わたしが当時米国に駐在できたのは勤務していた元会社がスポンサーとなってビザを取得してくれたからでした。ですがスポンサーもおらず個人で就労ビザを取得することは至難の業でした。9.11の事件が起きてからはますますビザ取得は困難となりました。いろいろの伝手を頼っていろいろやってはみましたが難しいということを思い知らされました。

 定年後、一体自分は何ができるのか冷静に自己分析をしてみました。良く考えると自分が一人で出来る能力などない、ということに改めて気付かされました。自分が得意なのは、音楽と英語ぐらいでしたが、音楽を定年後、仕事としてやっていく、ということには抵抗がありました。というのも音楽は自分の楽しみであり、息抜きであるのに、それを仕事にしたら、もうはけ口がなくなる、と思いました。では英語ではどうか?私くらいの英語力の人間は腐るほどいます。日本で通訳などの仕事をしてもたかがしれていました。定年前3年くらいからは定年後どうするか?ばかり考えていました。

 ある日、新聞で在日外国人の日本語問題の記事が目に止まりました。以前から外国人の日本語問題は気がついてはいましたが自分とは全く関係ない問題と思っていました。記事を読んでいくうちに日本語教師というのが目につき、一体、日本語教師とは何か?と猛烈に興味がわきました。早速、いくつかの日本語学校に連絡し、説明を受けました。ひょっとすると自分が探していた仕事はこれかも?と漠然と思いました。それからしばらくして入学手続きをしました。最低420時間の授業(出席率80%以上)を受け、12科目の試験に合格し、実習を修了しないと資格を取得することはできません。サラリーマンをやりながら授業を受けるのは厳しいものがありました。従って、わたしの場合は1年8か月の時間がかかりました。

 就職は一応学校が紹介してはくれますが自分で積極的に求職活動をしなければ難しい、というのが実情です。就職先はインターネットで「日本語教師」と検索すれば沢山ヒットします。が、実際に自分の条件に合ったものを探すのは困難を極めます。ちなみに、日本で非常勤講師(正規職員というのはほとんどありません)として日本語教師をすると時間給は1600円程度です。1時間の授業準備に最低でも3時間くらいはかかりますので、とても割りの合わない仕事と言えます。海外でもせいぜい月額400〜500ドル、というのが相場です。わたしの場合、9月1日で定年を迎え、卒業見込みが9月13日でした。2008年1月から卒業もしていないのに
積極的にインターネットを通じてアプローチを開始しました。海外しかも英語が使える国と限定して探しました。その活動の中でわかったことは英国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど、誰でも行きたがる国には求人がない、あるいは非常にハードルが高い(永住権が必要、など)、ということでした。

 そこで検索の輪を広げてフィリピン、インドネシア、マレーシア、インドなどの国にあたってみました。まだ、1月時点では卒業も見込み、という前提でしたが感触は悪くありませんでした。これなら7月くらいの時点で本格的に話しを進めれば決められる、と思っていました。ところが就職活動はこちらの思うようにはいかず、7月時点で再アプローチすると、大半が8月下旬に赴任して欲しい(というのも大学で教えるという前提が多く、9月初めから授業が開始する)、という要請でした。卒業は9月13日以降であり、困ったことになりました。

 結局、7月末の時点でベトナム、マレーシア、インドからオファーを獲得することができました。ベトナムは半官半民のような財団(日本政府とベトナム政府の共同出資)からのオファーで一番安定しておりましたが、飽きてしまうのではと御断りしました。マレーシア(マレーシア一番の語学学校)はとても住みやすい、との評判で興味がありましたが、校長から「マレーシアでは日本語の勉強はファッションです」、との回答にこれは自分にはあわない、と御断りしました。最後にインドのIT企業からオファーがありましたが正直、リスク等を考え御断りしました。が、何度も何度も熱心に声(社長のヒテーシュさん)をかけていただき現在勤務する会社を選択することになりました。従って、最初からインドでなければならない、とかIT会社だとか、こちらで決めていたわけでなく、結果として縁があったということでインドに赴任することになりました。ただ一つこの会社が違っていたのは英文履歴書をもとにわたしを採用したことでした。他の団体は英文履歴も送ってはいましたが一度も見られることはなく、日本語の履歴書だけで採用を判断しているようでした。そして何よりも熱意が違った、ということが決め手でした。
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