高島克規のインド日記
2月21日(日) 送別会
  個人的なことでお知らせしなければならないことがある。実は昨年秋から帰国している。父が昨秋に亡くなり、母が認知症ということで当面介護に精を出さないといけない、事情となったからである。ホームページ運営担当者の方々にご相談したら、日記は続けられるのであれば続けてほしい、と言っていただいたので続けさせてもらっている。今回は当面最後になったインドでの会社生活最終日の一端を記載してみたい。
  インドに滞在中、家内、実妹二人からは毎日メールが来た。私は日本に居ることになっているのだ。一昨年(2008年)のテロ事件以来、母が心配して帰国を要望したため一時帰国(2008年12月)してなだめた経緯があった。その後は父、家内、妹たちと示し合わせて「実際はムンバイに居るが日本にいる、ことにしよう」となった。日本時間の程よいころ実家に電話をかけることにした。インドと日本の時差は3時間半なのでインドのお昼ころ(日本では午後3時30分ごろ)に電話をかける。事前に日本の天候・ニュースなどは家内・妹からメールしてもらっているのでいかにも日本にいるかのように話す。問題はインドでの携帯電話の電波状態である。ときどき、突然切れるのである。携帯電話会社に聞いてみるとインドはとても電波の具合が悪い地域という説明を受けた。
  そんなことをずっと続けていたのであるが家内から「父が危篤」という知らせを受けて昨秋に帰国した。父は亡くなり、認知症の母が一人で暮らす、という状況になってしまった。ヒテーシュさんに事情を説明して帰国させてもらうこととした。「生徒が動揺するので帰る直前まで伏せていただけませんか」とヒテーシュさんから頼まれた。私の方としてもあまり積極的に話したい内容でもなかったので「そのようにお願いします」と返事をした。
  そして来週月曜日に帰国するという前週の水曜日午前中に生徒全員にメールした。メールをしたが誰からもメールへの返事がないのだ。不思議だった。一人ぐらい反応があってもよさそうなのに、何もないのである。「インド人はこんなものなのかな?」と自分を納得させることにした。その日の午後から普通どおり授業をした。生徒はメールの内容には触れないようにしている節があったが、こちらもあえてその話には触れずに普段どおりの授業を続けた。
送別会(写真をクリックするとスライドショウ)
  ヒテーシュさんから金曜日に「先生、月曜日の授業の後にお別れ会をしますので、ちょっとスピーチをしていただけるとありがたいのですが」と依頼があった。週末に簡単にスピーチの原稿を作ってみた。私の受け持っている生徒のレベルは千差万別である。本当に初級からビジネスクラスまでいる。どんな話がいいのかと思案したが、日本語を勉強するのは日本語が好きだからとか日本語を趣味でやることではない。あくまで日本で日本人を相手にビジネスをすることに主眼がおかれている。結局、スピーチの主題は「ビジネス」に主眼を置いたものを話すこととした。
  月曜日の最終授業が終わるころ(夕方5時30分)、教室の外ではがさがさ何か音がしていた。教室は会社の地階にある。授業を受けている生徒もだんだん落ち着かなくなってきたようである。最後の授業なので出来る限り伝えたい、とは思ったが私自身も落ち着かなかった。
  授業が終わり教室を出ると、地階全体に飾り付けがしてあった。もう全職員が集まっているようだった。インド式の送別会とはどのようなものなのか?ちょっと興味があった。ヒテーシュさんが「先生、どうぞこちらに来てください」と促され、演台のある位置に移動した。事前に地階の中心に演台が設置されていた。司会も決められているようで、Kさん(女性)がやってくれた。このKさんは以前の日記「レトルトカレー」でご紹介した女性である。
ヒテーシュさん・・・左側の人
  「まず、ヒテーシュ社長から挨拶があります」とKさんはヒンディー語、英語と日本語で話しだした。3言語で常に話す、これは大変である。この会社には運転手さんほか数人は全く英語も日本語も話せない人がいるからである。ヒテーシュさんから私が一時帰国しなければならない事情の説明と謝意が述べられた。今度はヒテーシュさんから「社員を代表して先生に感謝の言葉を述べたいと思います」と紹介があり。司会のKさんと翻訳グループのPさんが前に出てきた。二人はそれぞれ日本語で感謝の言葉を述べてくれた。立派なものであった。
  さらに全員から贈り物がある、との司会の説明に「何をくれるのかな」と思っていると、一人ひとりが「毛筆」を手渡してくれたのである。是非写真を見ていただきたい。書いてある内容も「毛筆」も見事である。実は私は時間がなかったので授業では一度も「習字」をやっていない。
習字の贈り物(写真をクリックするとスライドショウ)
離任することをヒテーシュさんに告げた時に私物を全部残していくこととした。その中に習字に必要な筆、墨、硯、半紙などをアニタさんに「あとで使ってください」と託したのである。生徒たちは私が離任すると告げた、水曜日の午後から、木、金曜日の間に私には気がつかれないように密かに会社の中で毛筆をしたことになる。恐らくアニタさんが個別に指導したのであろう。これには驚いた。全くそんな気配は感じなかったからである。
  むしろ平静以上に平静だった。その時になって初めてその平静さの意味がわかった。私の挨拶の番になった。何を話せばいいか悩んだが「電通 鬼の10戒」を英訳して話すこととした。

第一条 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
Commandment 1: Work is the one you should create by yourself and not the one which is given.
第二条 仕事とは、先手、先手と働きかけていくことで、受身でやるものでない。
Commandment 2: Work is the one you should gain the initiative and promote, and not the one which is passive.
第三条 大きな仕事に取り組め、小さな仕事は己を小さくする。
Commandment 3: Tackle big works. Small work makes you become small.
第四条 難しい仕事を狙え、そしてそれを成し遂げるところに進歩がある。
Commandment 4: Aim difficult works. There is progress if you accomplish them.
第五条 取り組んだら離すな、殺されても離すな、目的完遂までは。
Commandment 5: Never let it go once you tackle a work even if you are killed until you accomplish it.
第六条 周囲を引きずり廻せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の差が出来る。
Commandment 6: Lead a dance. Leading a dance differs greatly from being lead a dance in the long run.
第七条 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生れる。
Commandment 7: Have a plan. If you have a long-term plan, patience, innovation, proper efforts and hope will see the light.
第八条 自信を持て、自信がないから君の仕事には迫力も粘りも、そして厚みすらない。
Commandment 8: Be confident. There is no punch, persistence and non value adding in your work since you are not confident.
第九条 頭は常に全回転、八方気を配って、一部の隙もあってはならぬ。仕事とはそのようなものだ。
Commandment 9: Give full throttle to your brain all the time, pay attention to everything and be always on the alert. Work should be like that.
第十条 摩擦を恐れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと君は卑屈未練になる。
Commandment 10: Do not be afraid of friction. Friction is the mother of progress and the fertilizer of positive attitude. Otherwise you swallow insults and have regrets.

  話が終わるとしーんと静まりかえった。内容が難しすぎたか?あるいはまったくわからなかったか?のどちらかである。すると3級クラスのP君が手を挙げた。「先生、質問いいですか」。何を質問するのかと期待した。すると「いつ先生は戻ってくるんですか?日本語検定試験の2カ月前に戻ってきてください」と言ったのである。私もみなも大爆笑である。何故なら彼は日ごろから全く勉強をしない生徒だ。昨年も試験の直前に私が作った模擬テストと「暗記ノート」だけで合格したのをみな知っているからである。
  インド人はいつまでたっても変わらない。私も変わらない。でもちょっとだけ変わってきたのは私の方かもしれない。これからどのくらいインドとかかわっていくのかわからないが、ムンバイでの日本語教師生活を通じて私の人生の中で大きな財産が出来たことは間違いない。
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