高島靖男のインド日記
5月1日(金) デリー・アグラへの旅(2)
  前回に引き続きデリー・アグラへの旅を書かせていただく。話は前後するが4月11日(土)朝9時の飛行機(インド航空Indian Airlines)でデリーに向かった。
 折角の機会であるからデリーとムンバイの航空運賃もご紹介しよう。時間変更可能なもの、時間変更できないものによって運賃が異なる。料金が安いので時間変更できないものを購入した。片道5200ルピー(約10400円くらい)である。
  往復割引も、早割りもない。ヒテーシュさんからは「インド航空はあてにならないので日本へ行くときは必ず外国の航空会社にしています」と聞いていた。乗り気ではなかったが、他の国内航空はもっと信頼置けないのでは?とインド航空にした。妙な選択である。
  空港に到着した。国内線の空港であるのもかかわらず外国人の私はパスポートを要求された。外国人登録証を持っていたので助かった。これがなかったら飛行機に乗れなかった。更に、「Indian Airlines」と聞くと、「あっち」と空港職員が指差す。
  でもそこのカウンターは「Air India」と表示されている。「Air India」も「Indian Airlines」も同じなのか?不安で仕方がない。
 並んでいる列の前後の人に話すが英語はチンプンカンプンである。こんなことしていて飛行機に乗り遅れたら、と気が気でならない。やっと自分の番が来た。「ここでいいのか?」とカウンター・スタッフに尋ねると「何故?」というような顔で「OK」と答えられて質問する元気も失せた。


←デリー地図(地図をクリックすると拡大できます)
 
  飛行機は定刻9時を少し遅れて離陸した。予定ではムンバイ9時発、10時50分デリー着となっている。
  ムンバイとデリーは直線で約1200kmの距離である。約2時間で飛ぶ(鉄道だと16時間30分かかる)。現在、ムンバイ、デリー間の新幹線計画が進行中である。
  これには日本のODAからもお金が出ているし、日本の企業も参画している。出来るころにはインドは経済大国に発展していることであろう。
搭乗券とEチケットの比較(クリックすると拡大)
  機内食が出た。「Veg(ベジタリアン)あるいはNonVeg(ノンベジタリアン)」と聞かれる。勿論「NonVeg(ノンベジタリアン)」と答えた。
  「NonVeg(ノンベジタリアン)」の朝食はこんな感じである。決して、「インド航空」の食事もサービスもひどくない。
  11時に飛行機はデリーに到着した。出発するときもそうであったが、飛行機とターミナルがひどく離れているのだ。バスに乗って10分くらいかかって飛行機に乗り込む、あるいは10分くらいかかってターミナルに辿りつく、そんな感じである。従って、11時に到着したが出口から外に出たのは11時30分を回っていた。
機内食
  ORIXの表示をひょろきょろと探す。「Mr.TAKASHIMA」と書いたプラカードを持ったインド人が立っているのが見つかった。ほっとした。何しろデリーには頼る人はいないのだから。
  ORIXは日本のORIXである。正式名称は「ORIX Auto Infrastructure Services Limited」である。現地資本とJoint Ventureの会社である。このほかにも数社ORIXはJoint Ventureの会社を立ち上げている。運転手の名前は「ビジェンダルさん」だ。「英語はほとんどダメ」だそうだ。これから3日間、上手くコミュニケーションできるだろうか。

  「まず、Lal Qila(ラール・キラー)<注1>に行きたい」と告げた。デリーも暑い。でもムンバイより幾分涼しい?ように思った。空港から市内へ向かう道であるが、素晴らしい。ムンバイの田舎(失礼?)に暮らしていたのでインドはこんなもの、と思っていたがデリーは違う!近代都市にすでに変身を遂げていた。途中、大統領官邸へ寄ってくれた。これまた素晴らしい。警備が厳しく、駐車できない。私だけ降りて写真を撮った。車は近くを動きまわっていなければならない。私に限らず、どの車もそうであるから落ち着かない。とても英国のバッキンガム宮殿に似ている。
  そこから真っ直ぐはるか彼方を見ると「インド門」が見える。イメージとすると、ワシントンのリンカーン像とホワイトハウスの位置関係に似ていて、まっすぐお互いに向き合っている感じである。
  この距離はどのくらいあるのであろうか。そのまままっすぐ「インド門<注2>」に向かってもらった。
  個人的感想であるが、ムンバイの「インド門」の方がはるかに印象的で威圧感がある
大統領官邸
<注1>
   皇帝シャー・ジャハーンが、自らの名を冠した新都シャージャハーナーバードにおける居城として築いた。9年の歳月をかけて1648年に完成。名称の由来ともなった城壁の赤い色は、建材として用いられた赤砂岩のものである。
  1857年のインド大反乱を受けてイギリスは軍の駐屯地としてこれを接収。兵舎が建設されるなど、城内は大きく造り替えられた。インドの独立後も近年まで軍の施設として使用されていた。2007年には、隣接するサリームガル砦(Salimgarh)と併せて「赤い城の建造物群」としてユネスコの世界遺産に登録された。
インド門
<注2>
 インドのデリーにある慰霊碑。第一次世界大戦で戦死した兵士(約8万5千人)を追悼するために造られた。高さ42mのアーチには、第一次大戦で戦死したインド人兵士の名が刻まれている。東西に伸びるラージパト通り(Rajpath)により東端のインド門と西端の大統領官邸が結ばれている。永遠の火という火が灯されている。

   Lal Qila(ラール・キラー)に到着した。デリー駅の東に位置する。駐車するところがない。運転手さんの携帯番号を聞き、見学後、電話をすることとした。念のために車内で私の携帯からかかるか試してみた。OK、かかるようである。一歩、車を下りると、灼熱の太陽である。これは堪らない。
  早く城内に入らなくては。デリー有数の観光地である。土産物屋、客引き、リキシャー、ごったがえしている。人の波をより分けてやっと切符売り場へたどり着いた。外国人入場料100ルピーである(インド人10ルピー)。ここでは考古学局への支払いは強要されていない(笑い)。
ラール・キラー城 外壁
ラホール門 ラホール門遠景
   ラーホール門をくぐると土産物店の並ぶチャッタ・チョウク(アーケード)がある。それの先が一般謁見の間ディーワーネ・アームがある。
チャッタ・チョウク(アーケード) ディーワーネ・アーム(謁見の間)
  ディーワーネ・アームを見上げていると、「あなた日本人。ガイドが必要ね」「いらない」と無言で手を振ってその場を逃げ出した。
  後から「ガイドないと、ここの見学、意味ないよ」と捨て台詞が聞こえた。日本人はどこへ行ってもいいカモなのだろう。この城もタージ・マハールと同じように川沿いに建てられている。
  ヤムナー河を背に貴賓謁見の間ディーワーネ・カース、ラング・マハル、カース・マハル(皇帝の私室)などの宮殿が並ぶ。木陰で休むとヤムナー河からの風が心地よい。この暑さでは長時間、見学は続けられない。
ディーワーネ・カース(貴賓謁見の間)

  お腹もすいた。城内の食べ物屋で不衛生であるが食べることとした。長蛇の列である。取り敢えず、水が欲しかった。順番が来た。「水をくれ」と英語で言った。最初、冷えていないミネラルウォーターを出してきた。「いくらだ」と聞くと「20ルピー」と言う。ムンバイでは通常13ルピー程度で売っている代物である。50ルピーを出した。いくら待ってもお釣りをよこさない。「チェンジ(お釣りは)!」と回りにも聞こえるように大きい声で言った。しぶしぶ「30リピー」、お釣りをよこした。ムンバイも狡からいが、このようなことはしない。明らかに外国人から搾取しよう、騙そうという悪意が見てとれる。
モーティ・マハル(ラール・キラーの一部)

  店を換えて「ドーサ」<注3>を頼んだ。20歳代の若者である。英語がわからないようだが大丈夫であろうか。どうもプリペイドのような仕草をする。また騙される可能性もあったが、「いくら」と英語で聞いた。英語は通じないようである。さっきのお釣りから20ルピーを出した。20ルピー取られるかと思いきや、10ルピーしか取らない。これはとても正直な人である。私には値段がわからないのにである。20ルピーとっても騙されたかどうかわからない。席まで連れて行ってくれて、ウインクのおまけまでついた。インド人の観光客が注文する様子をじっと見ていた。正当な値段のようである。一概にデリーの人は狡からい、と言うのは早計かもしれない。(次回につづく)

<注3>ドーサ(Dosa)
 豆と米の粉を練り、鉄板で薄く焼いたものでやや酸味があります。クレープと呼ぶほど洗練されていませんが、軽食に丁度よいものです。
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