高島靖男のインド日記
10月13日(月) 外国人登録顛末
 朝7時30分にヒテーシュさんのアパートから会社に出発した。「10キロくらいの距離ですが渋滞が激しいので早くてすみません」との説明であった。高速道路に入った。車線はない。片側に何台の車が走るのであろうか。ざっと数えてみた。6台は走っている。バス、乗用車、リキシャ、タクシー。ぎょっとする。その車が走る道路を人が横切っていく。殺人行為に等しいが次から次へと人が横切っていく。道路の脇を人が歩いている。まさにこれがインドなのであろうか?やたらクラクションを鳴らす。全く意味がないと思えるが、どの車もやたらクラクションを鳴らしている。理由を聞いてみた。「これだけ車、人がひしめきあっているので必ず事故が発生します。そんな時、自分はクラクションを鳴らして注意を喚起している。だから、事故が起きても自分は悪くない、ということを主張するためにクラクションを鳴らしているんです。インド人の国民性は「Me First自分が第一優先」という考え方なんです。本当に全員が困らないと協力する、という気持ちはないのです」と説明された。う〜ん、というか、これがインドの考え方?

 1時間ほどかけて事務所に到着した。ヒテーシュさんの会社を含め沢山の会社が入居しているオフィス・ビ
ルであった。アニタさん(この会社の専務である)が、鉄道を見せてあげる、と言って敷地内のはずれに連れて行ってくれた。なるほど鉄道線路が見える。線路に沿って人、人が歩いている。突然、草むらから人が出てきた。どうもトイレの代わりにしたらしい。と思っているとあちこちの草むらから人が出てくる。だからこんなに臭いのか、と改めてわかった。列車が来た。うわさどおり、客車のドアは開け放たれている。人が落ちそうだ。「クーラーがついていないのに人がたくさん乗るのでドアはしめない」とアニタさんは説明してくれた。話によると乗れない人は屋根に乗るそうである。運賃(2等)は一区間4ルピー(約10円)である。

 事務所の中に入った。さすがにITソフトの会社という風情である。社長室の近くに席が用意されていた。いわゆるアメリカ式のブース方式の席である。自分の居場所があってよかった。8時30分に到着したので他に誰も来ていない。ヒテーシュさんとアニタさんは窓を開けて空気の入れ替えをしている。大企業ではないので社長、専務がこのようなこともやるらしい。自分もよくわからないが手伝うことにする。席を回ってみると、各スタッフの机には「あいうえお」、ひらがな、カタカナ、など一覧が貼ってあるのが目についた。皆、日本語を一生懸命勉強しているらしいことがわかった。

 アニタさんから「9時になったらこちらのスタッフと一緒にムンバイ市内へ行って外国人登録をしてきてください。今日はそれが一日の仕事になるかもしれませんよ」と言われた。「明日はパスポートを持ってきてください」と言っていた意味がこの時はじめてわかった。9時少し前にニーナさんという30前後の女性が出社して来た。映画に登場するようなインド美人である。挨拶を交すと外に車が用意してあった。「今の時間だと渋滞が予想されるので市内まで2時間くらいかかります。ですからトイレに行っておいてください」と言われた。

 たしかに事務所を出ると、どこへ行っても車、車、車である。渋滞という言葉では説明できない量である。そ
の上、交差点にもかかわらず信号がない。皆「Me First」である。身動きが取れない。皆でクラクションを鳴らす。その前にやることがあるのでは?と思わず思ってしまう。驚いたことに荷馬車を引いた人まで交差点に入ってくる。もう気を揉むのはやめよう。2時間が5時間になってもこれでは仕方がない。ニーナさんは肩をすくめて、ニコニコしている。「Horn OK please=クラクションを鳴らすのを許してください」と書いた車があちこちに目についた。ニーナさんに聞いた。「どの車もクラクションを鳴らしているのに、何故、車にはあんな表示がついている車があるの?」ニーナさんの答えは、「クラクションを鳴らすのは法律で禁止されている。でもトラックだけは視界が悪いのでクラクションを認められているんです」であった。「でも、どの車もクラクションを鳴らしているのに無意味では?」と質問した。「その通りです」とのニコニコして答えてくれた。禅問答のようである。

 大渋滞にもかかわらず2時間30分ほどでムンバイ市内の警察に到着した。外国人登録する場所の正式名称はCIDという。Crime Investigation Division(犯罪調査部)という意味である。インターポールと連携しているそうだ。警察本部の3階にある。エレベータに乗ると髭をはやした男性がエレベーター・ガールのような役目をしている。笑いを抑えた。エレベータから降りるとすぐにニーナさんに聞いた。「何故、エレベータにあの男の人がいるのですか?われわれだけでも行先はわかっているので問題ないでしょう。税金の無駄使いでは?」「保安上から乗っているのです」との答えであった。が、今ひとつ理解できない。入口にも警備員がいるので、そこで厳重にチェックしているではないか?もう、疑問を持つのはやめよう。ここはインドなのだから。

 外国人登録の部屋に入った。人、人、人である。しかも人種の坩堝である。おそらく日本人は自分だけであろう。うろうろしていると、係の人がまず、コピュータに自分で必要事項を入力するのだ、と言う。早速、入力作業をする。やたら細かい質問事項がならんでいる。ニーナさんが一緒でよかった。ニーナさんは四言語出来るそうである。10分ほどかけて入力を終えると申請書類がアウトプットされてきた。ナンバー5と数字が入っている。それを係の人に見せると5番の机に行けと言われる。気むずかしそうなインド人女性が担当官であった。書類を机に出すと、無言で書類を見だした。ざっと見て、急に「お前のインド人上司のパスポートのコピー3枚がないので受け付けられない」と言いだした。そんなことを言われても、と外に出てニーナさんに相談した。流石にニーナさんも慌てたらしい(相当以前から準備していて書類も確認していたようであるが)。血相を変えて担当官の席に走っていった。しばらくすると戻って来た。「ファックスでもハッキリ内容が読めればOKとの了解をもらったので、会社に連絡するので待っていてほしい」と言い残して、部屋を出て行った。その間に申請書類を読んだ。雇用主の責任が細々と記載されている。もし、自分が問題を起こせば雇用主が罰せられる内容である。約30分ほどして戻って来た。「このファックスをつけてもう一度、あの担当官に交渉してみてください」とニーナさんに頼まれる。おそるおそる例の担当官のところに行き、書類を提出する。またまた無言である。5分くらいして書類に記入しだした。OKのようである。書き終わると、「ファックスはダメであるが、今回特別に認める。だだし、オリジナルコピーをあとで3部提出のこと」と付け足した。「また来なければならないか?あるいは郵送でも?」と聞いてみた。初めて笑顔で「勿論、郵送は認める」と言ってくれた。書類が出来るまで外で待つことになった。

 1時間たっても呼ばれない。「今日中に証明書はもらえるの?」とニーナさんに聞いてみた。「必ず当日に発行されるので心配ない。待ってる時間が無駄なので昼食に行きましょう」とニーナさんは誘ってくれた。相当、お腹がすいてきた。ニーナさんについて表通のレストランに入った。「よくわからないので、おまかせします」とニーナさんに全てお願いすることにした。アニタさんにも「警察のあと、ニーナと一緒にランチをして戻ってきてください」と言われていた。ニーナさんが頼んでくれたミネラル・ウォーターとランチが運ばれてきた。だがビックリしたことに自分の分しか来ないのである。何かの間違い?「ニーナさんは食べないの?」と聞いてみた。「満月から4日間はハズバンドのために日が沈むまでは水も食べ物も絶っているんです」との答えである。そう言えば、朝から一度もトイレに行く様子がなかった。彼女は独身と聞いていたのだが、聞き間違い?個人的なことなので聞きなおすのはやめた。ウェイターもニーナさんに食事がないことに気が付き再度注文を聞きにきた。ヒンディー語で説明した模様である。何も知らない人が見たら、貧しいメードに食事を与えない残酷な主人のように見えたかもしれない。しかも素晴らしい美人と二人なのに片方だけ食事している。誠に奇妙な光景である。カレーを注文してくれたのであるが、ライスのおかわりもニーナさんが給仕してくれるが、片方は食事をとらない。水も飲まない。落ち着かないランチであった。

 夕方、やっと帰社した。それから席のまわりを整理したり、こまごましたことをやって会社を出たのは午後9
時に近い時間となった。ヒテーシュさんの車で帰ることになっていた。帰途、今日の出来事をヒテーシュさんに話した。「そうですか。うすうす、彼女が結婚しているのではないかと思っていたのですが、やはりそうでしたか。どうも彼女は両親には嘘をついていて、結婚はしていないがボーイフレンドらしき人がいる、と言っているらしいです」というのがヒテーシュさんの言葉であった。複雑!と思った。インドでは95%がお見合い結婚だそうだ(以前は99%がお見合いだったとのこと)。とするとニーナさんは恋愛結婚、例外ということになる。たしかに、ランチ中に時折見せた彼女の影のある表情は何かを物語っているように思えた。相変わらず道は混んでいる。渋滞は何時終わるのか?携帯電話が鳴った。携帯電話は到着した翌日にアニタさんから持たされた。日本の家族割引のようにヒテーシュさん、アニタさん、私の三人が同じNOKIAの携帯を持っている。アニタさんからである。「今、どこですか?」と聞かれた。「まだ、会社の近くです」と答えると、「30分くらい前にヒテーシュと話したら今会社を出る、と言っていたのに」と呆れた声が聞こえた。11時には家に帰れるのであろうか?
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