鎌倉八幡宮のご神木“大銀杏”倒壊
                                      神奈川 鎌倉 大沢さん
この船旅は昨年10月25日に横浜を出港、西回りでシンガポール、スリランカ、スエズ、地中海を経て大西洋を横切り、パナマ運河から太平洋に出てイースター島、これからタヒチに向かうところです。様々な思いを乗せて今、2010年最後の日が始まったところです。

 きちんと並んでいるモアイ、座っているモアイ、ひとりポツンと立っているモアイ、地べたにうつぶせになっているモアイ、作りかけたままのモアイ・・・。くぼんだ目、長い耳、鼻筋の通った美男の顔、色んなモアイが、本物のモアイが、至る所にありました。あるものは海を見つめ、あるものは海を背にして、どことなく淋しげに彼らはこの絶海の孤島に長年生き続けています。石ですから生きている筈はないのですが、見ていると絶対にそんな気がしてくるのです。
  モアイ像は、10世紀ごろから17世紀、西欧人がやってくるころまで作られていたと言われています。この島には鉄や銅はありません。専ら豊富に産する凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧でコツコツと刻んで作りました。まわりに侵略してくる国がなかったのが幸いして、自分たちの素朴な技を、作品をいつまでも作り続けることが出来たのでしょう。
だが、やがて人が増え部族が大きくなってくると争いが生じてきます。他の部族を制圧した証として、その部族が崇拝していたモアイ像を倒し目を抉り出す、そんなことになってしまいました。モアイを運ぶ樹木も乱獲されて土地は荒れ、また外国人に拉致されたことで労働力も激減する、モアイはこのようにしてとうとう作られなくなってしまいました。19世紀に入ると捕鯨船の奴隷として拉致されたり、1862年にはペルー人が島民のほとんどを連れ去り、島に戻ったのは僅か15人だったという話もありました。そのため島にあった昔からの言語ロンゴ・ロンゴを解する人もいなくなったため、古くからのことは一切消えてしまったし、モアイ像も地べたにうつぶせになったまま放置されてしまいました。

 イースター島(この言葉も最初にこの島に来た日が復活祭だったということからつけられたもので、地元の住民たちはラパ・ヌイ[大きな島]と呼んでいます。)には多くの謎が秘められています。言語を抹殺されたラパ・ヌイ、古くからの歴史がわからなくなってしまったラパ・ヌイ、今では、様々な形をした物言わぬモアイ像だけが、静かに、口を閉ざしたまま天空を見つめています。

この倒れたモアイ像をある日本の企業が立ち上がらせたという話をご存知でしょうか。今、15体のモアイ像が島の東アフ・トンガリキに、荒海を背にして立っています。東海岸ですから朝日を浴びた姿は筆舌に尽くしがたいとガイドブックにありました。その会社は只野建設、会社が持つクレーン技術をフルに生かし、周到な準備と、経験を生かした高い技術力で見事に成功させたと言います。この像は、遠くからでも見ることが出来る絶好の位置にあります。やはり日本人として誇りに思え、嬉しくなりました。

島に別れを告げる27日の夕方、船長の粋な計らいで、船で島を一周することになりました。暫くすると、切り立った崖の向こうにこの15体のモアイ像、そして、山のふもとに点々と幾つかのモアイ像が見え、双眼鏡で確認することが出来ました。さようならモアイ、いつまでも元気でいてくれよ、と心に念じながらイースター島、いやラパ・ヌイを後にしました。

この日の朝5時過ぎ、ラパ・ヌイの上空に南十字星を見ることが出来ました。27日は私の誕生日、ラパ・ヌイから素晴らしいプレゼントを頂きました。
                      
 (12月28日記)