「中南米探訪記」1(つぶや記 W)
                                    本川さん
船は間もなく赤道を通過、いよいよ北半球に入ります。
後は横浜(18日到着予定)まで一直線、長い旅も終わりです。


<モーレア島>


 真っ青な空に白い雲が湧いている。波は遥か先の岩礁に遮られて、湾の中の水面は鏡のように滑らかだ。足許の水は透き通り、指の一本一本がさざ波に揺れている。さわやかな微風、見上げると椰子の木にカモメが2羽、朝の空気に戯れていた。その下にバナナの葉っぱで葺いたバンガローが点々と散らばっている。垣根には赤や黄色の花が咲き乱れ、プリメーラの木の下には真つ白い花びらが散っていた。時が止まっているのか、はたまた流れているのか、私にはわからない。
                   
 こんな状況に身を置いたとき、果たして誰が不満を言うだろうか。日々喧噪の巷にあって疲れ果てた現代人にとっては、これこそ最高の贅沢ではないだろうか。 そんな思いを味わわせてくれる素晴らしい所がタヒチ島のすぐそばにあった。その島の名前はモーレア島、嘗てゴーギャンが「世界の名城」とたたえ、映画「南太平洋」の舞台にもなったというこの島で、今回幸運にも一泊することが出来た。まさに地球一周のフィナーレを飾るにふさわしい出来事だった。

 初めは単にタヒチを観光するつもりだった。色々な人の話を聞くとモーレア島が素晴らしいという。そう何度も来ることが出来るところではない、よし、それじゃ、と決断したのは僅か1週間前のことだった。年末年始の慌ただしいスケジュールの中、ガイドブックを頼りに宿を探したが、何せ海を行く船からはそう簡単に連絡が取れるわけにはいかない。とうとう上陸の当日となり、運を天に任せて真っ先に上陸、旅行会社を探す。寄港地パペーテの港の近くは車の往来が激しく賑やかだ。探し当てた旅行会社の中には何と日本人のスタッフが3人も座っていた! 話は早い、ホテル・ハイビスカスに1室を確保し、5時半の最終フェリーに乗り込む。外人さんばかりの中にまじって日本人はピースボートの外国語の先生たちのグループと音響担当の若者グループがいただけ、個人で渡るのは我々だけのようだった。

 もうすっかり暗くなったモーレア島の道路を、ホテルで斡旋した黄色いタクシーが飛ぶように走る。ホテルに到着したときにはもう8時をまわっていた。We are very hungry. レストランでポリネシアン風の料理を注文、タヒチのヒナノビールは殊の外うまかった。周りは殆どフランス語、その中で、近くに泊まるというピースボートの先生グループの英語が混じり、日本語は我々二人だけだった。

 翌朝、食後の散歩の後早速水着に着替えてポリネシアの水に浸かる。我々と4、5歳くらいの男の子を連れた父親のほかは誰もいない。無邪気に水の中から飛びかかってくる男の子、我々が遠く異国から来た日本人などという意識は全くない。近くに真っ白のカヤックが1艘、離れたところでは小さいボートがエンジンを吹かせて水面を踊っていく。椰子の木の上には今朝のカモメがまだ飛びかっていた。

 ゴーギャンは機械文明に明け暮れる西欧を離れて12年間もタヒチで過ごし、この地で亡くなったという。その彼が愛したのは野性的な美しいタヒチの美女だけではあるまい。この空、この空気、そして今も変わらぬユッタリとした時の流れをこよなく愛したに違いないと私は信じている。  

 (2011年1月6日 記)


<イースター島>


 いた、いた、いました、あのモアイ像が!
きちんと並んでいるモアイ、座っているモアイ、ひとりポツンと立っているモアイ、地べたにうつぶせになっているモアイ、作りかけたままのモアイ・・・。くぼんだ目、長い耳、鼻筋の通った美男の顔、色んなモアイが、本物のモアイが、至る所にありました。あるものは海を見つめ、あるものは海を背にして、どことなく淋しげに彼らはこの絶海の孤島に長年生き続けています。石ですから生きている筈はないのですが、見ていると絶対にそんな気がしてくるのです。
 

 モアイ像は、10世紀ごろから17世紀、西欧人がやってくるころまで作られていたと言われています。この島には鉄や銅はありません。専ら豊富に産する凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧でコツコツと刻んで作りました。まわりに侵略してくる国がなかったのが幸いして、自分たちの素朴な技を、作品をいつまでも作り続けることが出来たのでしょう。
だが、やがて人が増え部族が大きくなってくると争いが生じてきます。他の部族を制圧した証として、その部族が崇拝していたモアイ像を倒し目を抉り出す、そんなことになってしまいました。モアイを運ぶ樹木も乱獲されて土地は荒れ、また外国人に拉致されたことで労働力も激減する、モアイはこのようにしてとうとう作られなくなってしまいました。19世紀に入ると捕鯨船の奴隷として拉致されたり、1862年にはペルー人が島民のほとんどを連れ去り、島に戻ったのは僅か15人だったという話もありました。そのため島にあった昔からの言語ロンゴ・ロンゴを解する人もいなくなったため、古くからのことは一切消えてしまったし、モアイ像も地べたにうつぶせになったまま放置されてしまいました。

 イースター島(この言葉も最初にこの島に来た日が復活祭だったということからつけられたもので、地元の住民たちはラパ・ヌイ[大きな島]と呼んでいます。)には多くの謎が秘められています。言語を抹殺されたラパ・ヌイ、古くからの歴史がわからなくなってしまったラパ・ヌイ、今では、様々な形をした物言わぬモアイ像だけが、静かに、口を閉ざしたまま天空を見つめています。

 この倒れたモアイ像をある日本の企業が立ち上がらせたという話をご存知でしょうか。今、15体のモアイ像が島の東アフ・トンガリキに、荒海を背にして立っています。東海岸ですから朝日を浴びた姿は筆舌に尽くしがたいとガイドブックにありました。その会社は只野建設、会社が持つクレーン技術をフルに生かし、周到な準備と、経験を生かした高い技術力で見事に成功させたと言います。この像は、遠くからでも見ることが出来る絶好の位置にあります。やはり日本人として誇りに思え、嬉しくなりました。

 島に別れを告げる27日の夕方、船長の粋な計らいで、船で島を一周することになりました。暫くすると、切り立った崖の向こうにこの15体のモアイ像、そして、山のふもとに点々と幾つかのモアイ像が見え、双眼鏡で確認することが出来ました。さようならモアイ、いつまでも元気でいてくれよ、と心に念じながらイースター島、いやラパ・ヌイを後にしました。

 この日の朝5時過ぎ、ラパ・ヌイの上空に南十字星を見ることが出来ました。27日は私の誕生日、ラパ・ヌイから素晴らしいプレゼントを頂きました。

(2010年12月28日 記)


<ドミニカ>


 ドミニカってどこにありますか? 3か月前までは正直私も知りませんでした。ドミニカはカリブ海にある島の一つ、キューバの東側にあります。

ピースボートクルーズから転載
 ここまで来たら一度カリブ海の海に入ってみたいな!と、 折角用意した水着を袋に詰め込みイソイソとバスに乗り込みました。港から約1時間、海辺のホテルが目的地、ところがそのホテルの中庭が入り組んでいて、どこがどこやらサッパリわからない、漸くロッカーを探しあて着替えを済ましたものの、今度はロッカーの鍵がかからない。えい、ままよ、ここらあたりはピースボートの仲間たちばかりだし、まあ良いだろうと勝手に決め込んでサー海へ。海の水はそれ程冷たくはない、しかしいきなり入ると心臓に悪いのでソロソロと足を突っ込む。これなら大丈夫と前に進もうとしたらいきなり深くなった。あわてる拍子に波が頭からザブーン、カリブ海の水は滅法からかった!! 10分ほどして引き上げ、まあこれでもカリブ海の海に入ったことに変わりはないと大いに満足。レストランのビールは殊の外おいしかった。知らない人にはカリブ海で泳いできたぞと自慢しよう(これヒミツ)。   


<コロンビア>


 次にコロンビアのカルタヘナを訪問しました。数日前(数週間前?) コロンビアで大きな水害があったとか、船内にも義捐金募集のキャンペーンがあり、私もささやかなドネーションをしました。

コロンビア・カルタヘナ
ピースボートクルーズから転載
 初めて見る南米の町カルタヘナは、今までのアジア、ヨーロッパとは違った雰囲気がありました。どこがと言われても困りますが、赤や黄色、青などカラフルな家々が並んでまさにエキゾチックです。暑い国だから町を歩く人は軽装、所々水たまりがあるのはこの前の水害のときの名残でしょうか。

 ここには堅固な要塞が町中に残っており、世界遺産になっています。スペインがやってきたころ、この町は南米各地の物産の集積地として発展し、その富を狙ってカリブ海の海賊たちがたびたび襲ってきた、要塞はその防衛のためのものです。昔はこの要塞の中にだけ町があったそうですが、その後、壁の外にも広がっています。この町の中心に大きな教会のような建物がありました。サン・ペドロ・クラベール寺院と言い、アフリカから連行されてきた黒人奴隷たちのなかで半死半生の者たちを船から救い出し、この建物に連れて保護したという聖人を祭ってあります。生々しい歴史の現実を垣間見て身のすくむ思いでした。

 町中の建物の特徴として2階に昔風のバルコニーが見られました。スペイン統治時代の名残りだそうです。

 


<パナマ> 


エンベラ(EMBERA)村
日通ペリカントラベルネットより転載
 ここでは運河の周りに密生する原始林の中に住んでいる先住民族の部落を訪れたことについて書きます。港から30分ほど行ったところでバスを下り、黄色く濁った川を小舟(2種類あって10人または20人位が乗れる)に乗ってさかのぼります。やがて到着した部落には、顔や肌に一杯入れ墨をし、カラフルな腰布をまとった村人たちがドンドコドンドコと太鼓を打ち鳴らして歓迎してくれます。いきなり原始時代に飛び込んだ感じです。これはすごいぞ。

 若者たちの手を借りて上陸した我々は、そこでまず歓迎のあいさつ(スペイン語)を受けました。次いで村人の案内で付近を歩きます。小さな木の実を割ると赤い粒々が、それを顔や手に塗るとお化粧になるというので皆、面白がって顔や手に赤いしるしをつけてもらい大はしゃぎしていました。お互いの踊りを披露しあって交歓、日本側は元気な若者たちの「よさこい踊り」を披露、村人たちには恐らく初めて目にする光景でしょうが、果してどんな気持ちでしょうかね。小さな赤ちゃん、元気に走り回る子供たち、赤い花飾りをつけた娘さん、みんな素敵でした。こんな世界が人工の極致を極めたパナマ運河のすぐそばにあるとは全く意外、恐れ入りました。


<エクアドル>


 エクアドルとエルサルバドル、紛らわしいですね。エルサルバドルは中米、エクアドルは南米の太平洋岸にあります。我々が上陸したマンタという町は漁港として栄え、人口は25万人、エクアドルで5番目の大きい町、いや「市」でした。エクアドルとは「赤道」という意味だそうで、まさに赤道直下にある国なのです。
 さてこのマンタ市で驚いたのは、ここに日本伝統の「折り紙」文化が息づいていたこと。 どうして? なぜ?  
もう一つ驚いたのはこの国の憲法が平和憲法であること、その現れとして米軍の基地撤退を実現させたということです。いま日本では沖縄の基地問題で激しく揺れていますが、この国ではどうしてそんなことが出来たのでしょう?

後の米軍基地の問題は話がややこしいし、私も十分説明できないのでひとまず置くとして、初めの「折り紙」文化の話です。実際にこの「折り紙」の普及活動を実践している人たち4人の話を聞くと、初めは個人的な日本人との交流のなかからだそうですが、その後の活動が目覚ましい。まずその作品の一部をご覧にいれます。この他にも数多い作品を船内に展示し、また「折り紙講習会」を開いて日本人に実地指導 (これ逆じゃないですか) してくれました。まさに脱帽です。この普及活動を通じて彼らは平和を、さらに南米各国の愛好家と結んだ活動を展開しているとか、素晴らしいですね。


 ここでは上陸当日、市民広場で大きな歓迎集会が開かれ、マンタの市長ほか数人の歓迎スピーチがありマンタの踊りが披露されました。ピースボートの入港を全市を挙げて歓迎してくれる、私はただ目をパチクリするだけでした。